KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

鹿角市・小坂町の歴史と史跡をご紹介!

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どーもKABUOです

 

秋田県北秋田エリアを中心に

歴史と史跡を巡りました。

今回は秋田県鹿角市小坂町

世界遺産大湯環状列石

戦国時代の安東・南部氏・津軽氏の争い、

江戸時代の南部家の統治等、

鹿角郡の歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

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鹿角市小坂町の歴史と史跡をご紹介!


鹿角市役所

 

秋田県の北東端部に位置し、

青森県岩手県と境を接する

鹿角市小坂町

鹿角市の中部に当たる花輪盆地は

米代川の流域の流域であり、

市内・町内の大部分はこの米代川

その支流の集水域に当たります。

 

1972年、花輪町・十和田町・尾去沢町・

八幡平村が合併し鹿角市が発足。

1955年、小坂町・七滝村が合併し

新政小坂町が誕生し現在に至ります。

 

鹿角の由来ですが、

市内を流れる米代川支流が、

高台から見下ろすと鹿の角のように

見えるから地名の由来となり、

小坂町の由来ですが、

地形がその由来となりました。

 

 

大湯環状列石

 

原始の時代。

先土器時代に属する遺跡は

発見されていませんが、

縄文時代の遺跡は約110例が報告され

清水向遺跡・黒森山竪穴住居跡等

数多くの遺跡が発見されています。

 

こちらの大湯環状列石

万座・野中堂2地区にある、

ストーンサークルの総称で

約4000年前の縄文時代の遺跡で、

大小の川原石を様々な形に組み合わせた

複数の配石遺構を環状に配置し形成され、

一説には配石墓だと考えられており、

北海道・北東北の縄文遺跡群として

世界遺産に登録されています。

 

 

三光塚古墳

 

古代の時代

大和朝廷による北進により、

秋田城が建造され秋田県中央・南部と

支配下進むなか北部では

蝦夷と呼ばれる先住民が抵抗を続けていた。

878年、秋田城の悪政に端を発し、

秋田城下の蝦夷が反乱を起こした。

これを元慶の乱と呼ばれます。

 

この時代鹿角一帯は

「上津野」かづのと呼ばれ

鹿角一体の蝦夷も反乱に参加、

この戦いは鎮守将軍小野春風が単身、

蝦夷の長の元に訪れ説得に当たり、

大和朝廷に帰順したと記録に残されています。

 

こちらの三光塚古墳は

奈良~平安時代の古墳だとされ

主に蝦夷の長の物と考えられており、

秋田県内で唯一、墳丘が現存する

古墳となっています。

 

 

花輪館

 

中世の時代

9世紀末頃から奥羽の要衝地として

鹿角地域の重要性が増し、

1189年、源頼朝による奥州合戦から逃れ、

比内贄柵主河田次郎を頼り、

この地に逃れた藤原泰衡もこの

鹿角を通り退却したと伝えられています。

 

鎌倉時代に入ると後家人である

成田・安保・奈良・秋元氏

4氏が鹿角地域に入部を果たし

各地に根差し勢力を張りました。

南北朝廷時代に差し掛かると

南朝方の南部氏が鹿角郡に進出し

家臣団の配置を行い、

北朝方武士団と抗争を繰り広げたとの

記録が残されています。

 

戦国時代に入りますと、

鹿角郡一帯は、青森の南部氏

津軽から南下した安藤氏、

比内郡で勢力を広げた浅利氏との間で

領土を巡る抗争が繰り広げられ、

鹿角に住む国人衆は各勢力に組み入れし

命脈を保つ事となりました。

 

こちらの花輪館は

この地域に入部した安保氏の館跡で、

現在花輪小学校敷地内となっていますが、

遺構はしっかりと残されており

とても見ごたえがある館跡でした。

 

こちらに花輪館の歴史と史跡を

詳しく記載した記事です

www.yamagatakabuo.online

 

 

鳳林山長年寺

 

安藤氏と南部氏の争いは

度々繰り広げられますが、

南部氏の勝利によって

鹿角地域の領土は確定された。

天正19年南部一族の派閥争いに端を発し、

九戸政実南部信直に謀反を起こすと

九戸氏に与する武将が九戸城に集まります。

この戦いには鹿角地域の国人衆数名が

九戸方に参加し南部氏方と戦いましたが、

南部氏方は豊臣秀吉軍の援軍を引き入れ

この乱の鎮圧に当たり、

九戸軍はこの戦いに破れる事となりました。

 

こちらの長年寺は

九戸政実の父九戸信仲によって開創され、

岩手県九戸郡九戸村の長興寺を前身とする。

九戸の乱で処刑された九戸政実の弟、

中野康実が兄の遺骸を葬って菩提寺とし、

4代康敬が花輪時代にこの地に移しました。

 

 

仁叟寺

 

江戸時代

関ヶ原の合戦後、

東軍徳川方に味方した南部利直は

所領は安堵され盛岡藩を立藩。

鹿角郡には中野氏・桜庭氏・北氏と

城代を3名派遣を行い統治を行いました。

1郡内に城代3名を置いたのは、

久保田藩からの国境の防備と、

豊富な鉱山資源の管理を行うためだと

いわれています。

 

盛岡藩では領内を10郡に分け

さらに33の「通り」に分け、

1通り1代官所を置いた、

鹿角郡には花輪通・毛馬内通と2つに分け

領内の経営と鉱山の開発を行いました。

 

戊辰戦争では盛岡藩は東北諸藩とともに

幕府擁護の側に立ち、

開戦とともに藩境を突破した盛岡藩軍は、

たちまちのうちに秋田藩

十二所・扇田・大館を席巻し

大館城を自焼に追い込みましたが、

九州諸藩の援軍で力を盛り返した

秋田藩軍の反撃にあい敗走を重ね

1868年9月10日に降伏に至りました。

 

こちらの仁叟寺は

毛馬内地域を治めた桜庭氏の菩提寺で、

山門は中世南部氏に従った

毛馬内氏の居館当麻館の

搦手門跡を移築した物になります。

 

 

小坂鉱山事務所

 

 

尾去沢鉱山

 

近代の時代。

明治政府は豊富な鉱山資源のある

鹿角地域に着目を行い、

近代化の整備を推し進めた結果、

小坂鉱山・尾去沢鉱山

国内でも指折りの鉱山地帯として

多くの労働者を集め町は

活性化される事となります。

 

民間経営に払い下げた後、

鉱山労働者の為に福利厚生に勤め

または鉄道の整備も行われ、

鹿角地域のインフラが整備され

地域は繁栄しましたが、

昭和中期に起こったエネルギー転換によって

鉱山の必要性は徐々に薄れ、

多くの鉱山は閉山へと

追い込まれる事となりました。

 

現在各鉱山は小坂町鹿角市

人気観光スポットとして整備され

多くの観光客が毎年訪れています。

 

小坂鉱山・尾去沢鉱山

歴史と史跡を紹介した記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

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花輪ばやし

 

 

十和田湖

 

現在鹿角市小坂町では

特産品のりんごをはじめ、

小坂鉱山や尾去沢鉱山の史跡観光や

十和田湖の優大な自然、

夏場には花輪ばやしや毛馬内の盆踊等

観光資源に恵まれており、

多くの観光客が訪れています。

秋田県にお越しの際は

鹿角市小坂町にぜひ訪れてみてください

 

 

こちらが史跡の場所です

 

鹿角市の歴史と史跡

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