KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

秋田市の歴史と史跡をご紹介!

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どーもKABUOです!

 

秋田県秋田市の歴史と史跡を巡る

旅に行ってきました。

今回は秋田県の県庁所在地

秋田市の歴史を中心に、

戦国時代安東氏一族の争いや

秋田藩の居城となった久保田城など、

原始古代から中世戦国時代、

近世江戸時代を中心にご紹介します。

 

 

 

 

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秋田市の歴史と史跡をご紹介!

 

秋田駅

 

 

秋田市庁舎

 

秋田県県庁所在地の秋田市

市の西側は日本海に面しており

町の中心部を雄物川が流れています。

また市の東にあります大平山は

古代より山岳信仰の地として栄え

海・山・川と自然に囲まれた

都市となっています。

 

秋田という地名の由来は

齶田(あぎた)とも呼ばれており

「あぎ」は「上げ」から転じたもので、

「た」は場所を意味しており

周囲より高くなっている場所という

意味があるそうで、

「あぎた」がなまり「あきた」と

呼ばれるようになりました

 

江戸時代に藩政を行った

久保田城(千秋公園)近辺が

中心街となっており

土崎港地区・新屋地区等

南秋田郡河辺郡の町村を編入

2005年に河辺町・雄和町と合併し

現在の秋田市が誕生しました

 

土崎港地区・新屋地区、

旧河辺町・旧雄和町の歴史と史跡は

こちらの記事で紹介しています。

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地蔵田遺跡

 

原始の時代

高清水・新屋・豊岩・四ッ谷小屋等、

雄物川と岩見川沿い流域を中心に

縄文時代の遺跡が数多く発見されており、

弥生時代の遺跡には

地蔵田・古野・下堤・狸崎

松木台地区などに遺跡が

発見されています。

 

地蔵田にあります地蔵田遺跡は

竪穴住居跡4軒、木柵跡3条、

土器棺墓25基、土壙墓51基が

発見されており

現在は史跡公園として整備されており

国指定史跡に登録されています

 

 

 

秋田城跡

 

古代の時代。

秋田の文献上の初見は658年、

阿倍比羅夫が180の軍船を率いて

齶田(あぎた)の蝦夷を服属させたと

日本書紀の記録に残されており、

朝廷による北方遠征により

徐々に東北地方を支配下に治めると

733年には出羽柵が庄内地区から

秋田市高清水に秋田城が移されると

もっとも北にある行政機関として

出羽国の統治管轄を行いました

 

秋田城の歴史と史跡を

詳しく紹介して記事はこちらです

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補陀寺

 

中世の時代

鎌倉時代が始まると

地頭橘公業(たちばなきんなり)が

秋田郡に入部を行い統治を行います。

この頃奥州藤原氏の朗党

大河兼任が反乱を起こし

百三段(新屋)が戦場となりました。

 

その後橘氏長門守となりこの地を去ると

安達景盛父子が秋田城介を任命され

南秋田郡一帯を統治したと考えられ、

鎌倉幕府後期には

青森県津軽地方で勢力を広げた

津軽安東氏が内紛によって分裂すると

敗れた一族側が南秋田郡へと下向し、

土崎を本拠地とし統治を行いました

 

秋田市山内にあります補陀寺は

月泉良印和尚によって

1349年に大館の松原に

安東氏の菩提寺としてたてたのが

前身だといわれており、

湊安東氏の外護により栄えたと考えられ

本堂・山門は秋田市指定文化財

登録されています。

 




湊城(土崎神名社)

 

戦国時代

湊安東氏は秋田市土崎を拠点として

南秋田郡河辺郡を中心に勢力を広げ、

また土崎湊を有効活用した事から

蝦夷との交易を活発に行い

中央勢力との深いパイプも繋がり

政治的・経済的も栄える事となります。

 

その後青森県津軽を本拠地とした

津軽安東氏も南部氏との争いに敗れ

湊安東氏を頼りに土着を行うと

秋田県檜山城を拠点に勢力を広げる

檜山安東氏と呼ばれるようになりました。

 

しかし湊安東氏と檜山安東氏の間で

軋轢が生まれてしまい対立すると、

1589年に湊合戦が行われ

檜山安東氏側の勝利によって

湊安東氏は吸収される事となり、

檜山安東氏は秋田氏と改名、

九戸政実の乱や朝鮮出兵

豊臣方に与しこの地の統治を行いました。

 

秋田市土崎にあります土崎神名社は

湊安東氏の居城湊城があった場所で

遺構は殆ど残されていませんが

湊安東氏を偲ぶ石碑が建立されています。

 

 

久保田城

(千秋公園)

 

 

天徳寺

 

江戸時代

関ヶ原に合戦では

徳川方に味方した秋田氏でしたが、

合戦の最中自国領土に引き返した事を

戦後に咎められ所領を没収され

この地を去る事となります。

その後茨城県常陸国より

佐竹義宣秋田県へと入部を行い、

秋田藩を立藩すると、

当初湊城へと入城を果たしましたが

手狭だった為、新城の築城を開始し

1631年、久保田城が完成しました

 

こちらの天徳寺は

佐竹氏の菩提寺として厚く帰依を受け

本堂及び山門は国重要文化財

登録されています。

 

久保田城の歴史と史跡を

詳しく紹介した記事はこちらです

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太平山三吉神社 総本宮

 

 

日吉八幡神社

 

 

如斯亭庭園

 

久保田城に入城した佐竹義宣

城下町の整備を押し進め

土崎湊による海運に院内銀山の採掘など

秋田藩の政治・経済の中心に担います

また太平山三吉神社・日吉八幡神社

領内の神社仏閣の保護にも努め、

また歴代藩主は鷹狩りに興じた事から

如斯亭庭園等各地に休憩所を設置するなど

領内の開発し秋田市

原型を作りあげました。

 

太平山三吉神社・日吉八幡神社

如斯亭庭園を詳しく紹介した

記事はこちらです。

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平田篤胤の墓

 

 

仙台藩殉難碑

 

 

全良寺官修墓地

 

明治幕末期

1868年に幕府軍明治新政府軍による

鳥羽伏見の戦いを皮切りに

明治戊辰戦争が勃発すると、

当初秋田藩は東北近隣諸藩とともに

奥州列藩同盟を結び

幕府方に味方しましたが、

国学者平田篤胤による

尊皇攘夷思想が藩内に浸透しており、

仙台藩士の使者を斬り同盟を破棄し

明治新政府方に与する事となります。

 

これに激怒した東北諸藩は

秋田領に兵を派遣して侵攻を進めると、

秋田藩は防戦に撤し徹底的に対抗を行い、

その後東北諸藩の降伏によって

戦争は終結する事となりました。

 

秋田市内には戊辰戦争にまつわる

史跡が数多く残されており、

国学者平田篤胤の墓地や

仙台藩士の使者を弔う石碑に

明治新政府に味方し亡くなった

藩士を埋葬した

全良寺官修墓地が残されています。

 

 

秋田市立赤れんが郷土館

 

 

藤倉水源地

 

現在秋田市では毎年夏に開催される

秋田竿燈まつりでは多くの観光客が集まり

秋田市立赤れんが郷土館や

秋田県立美術館に

土崎港町の沿岸沿いの観光スポットに

重要文化財に指定されている

藤倉水源地などの大自然にも囲まれた

歴史的町並み・海・大自然

見所が満載ですので

秋田市にぜひ観光に訪れてみてください

 

 

こちらが史跡の場所です。

 

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