どーもKABUOです。
巡る旅に行ってきました
今回は鶴岡市温海エリアを中心に
人気観光スポットあつみ温泉や
中世の山城小国城等の
歴史や史跡をご紹介します。
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鶴岡市の歴史と史跡をご紹介!(温海エリア編)
鶴岡市温海庁舎
(旧温海町役場)
県西部、県の日本海沿岸地域の南端に位置し
北は鬼坂峠・藤倉山を境に鶴岡市中心街、
接しています鶴岡市温海エリア。
その歴史ですが1954年、
旧温海町・鼠ヶ関村・福栄村・山戸村が
合併し新政温海町が成立、
その後2005年の平成の大合併で
温海という地名の由来は
温海岳の鳴動の際湧出した温泉が
温海川に流れ海まで温められた事から
温海という地名の由来となりました。
古代鼠ヶ関址
原始・古代の時代。
縄文時代の遺跡としては
木野俣遺跡・小名部遺跡など
約200ヶ所が確認されているが
いずれも規模が小さく出土品が少ない。
遺物の中には本県では珍しい新潟県の
長者ヶ原式爪形文土器や竹管文土器がみられ
越後文化圏に属したことを物語っている。
大和国家の勢力が
この地に及ぶのは大化の改新以後で
647年、信濃川北岸に渟足柵(ぬたり)
同年北に岩船柵を建設、
651年~652年頃さらに北上して
都岐沙羅柵(つきさち)を設置した。
都岐沙羅柵の位置については
鼠ヶ関説や木野俣説があるが明らかではない。
こちらの古代鼠ヶ関址
奥羽の三大関の一つに数えられており
古代の鼠ヶ関が関戸を従え自活する
強力な軍事的関所であったと事が判明され
鶴岡市指定史跡に登録されています。
源義経上陸の地碑
中世の時代
1189年、奥州合戦の時、
鎌倉軍の一隊は鼠ヶ関から庄内に侵入し、
迎え撃った田川太郎行文を滅ぼした。
戦後鎌倉の御家人武藤氏が
大泉荘の地頭に任命され
大泉氏あるいは大宝寺氏を名乗り
庄内地方の統治を行いました。
こちらの源義経上陸の地碑は
源義経一行は鼠ヶ関の関所を通り
鶴岡に至り羽黒山を参拝したといいます。
その際義経は山伏に変装しておりましたが
番所の約人に疑われ弁慶がなぶる蹴る等の
暴行を行い約人の疑いの目を背けた話は
歌舞伎の演目でされる等有名です。
源義経放映された事を記念して
こちらの碑が建造されました。
小国城
藤島城を拠点に南朝方の再起を狙う
小国城主小国政光は
南朝方に与し戦いましたが、
動乱は北朝方が有利に戦いを進め
その後小国城は武藤氏に接収され
その後支城として
新潟県と庄内の要所を押さえる
重要な城として使用されます。
戦国時代
武藤氏は最上義光との戦いに破れ
上杉氏家臣本庄繁永の元に逃れると
上杉氏の勢力を背景に庄内に侵攻、
1588年、十五里ヶ原の戦いで
領地へと組み込まれる事となりました。
小国城の歴史と史跡を
詳しく紹介した記事はこちらです。
近世鼠ヶ関址
近世の時代
関ヶ原の合戦後戦功が認められ
57万石の領地を与えられ山形藩を立藩。
庄内各地に家臣を配置し
領土の整備が行われましたが、
1622年、家臣団の内紛が原因により
幕府から改易を命じられる事となります。
岩山が海に迫り難所でありました
以後庄内藩によって明治時代まで
統治される事となりました。
こちらの近世鼠ヶ関址は
江戸時代には鼠ヶ関御番所と呼ばれ、
庄内に酒井氏が入部した1622年以降に
人々の往来を取り締まる関所を
整備されたといわれており
鶴岡市指定史跡に登録されています。
関川の戊辰役激戦地跡
明治時代
1868年1月に戦端を切った戊辰戦争は
4月に庄内討伐令が発せられ、
7月に越後長岡藩が陥落すると
新政府軍は大挙して北上し庄内に迫ってきた。
8月下旬から国境各地で激戦が展開され、
鼠ヶ関口・清川口・吹浦口などにおいて
庄内軍は敵を領内に入れなかったが
関川口では敵の奇襲に不意を突かれ、
必死の防戦もむなしく占拠された。
(山形県の歴史散歩引用)
内地最後の激戦地であり
戦争によって数戸の住居が焼かれ
戦争では避け得ない破壊と略奪に
村人は以来数年間極貧生活に
耐えなければなりませんでした。
鶴岡市指定史跡に登録されています。
現在鶴岡市温海エリアでは
鼠ヶ関漁港で獲れる新鮮な海産物の他、
開湯1000年有余年の歴史あるあつみ温泉に
国の伝統工芸品に指定されている
「関川のしな織」等魅力あふれています。
ぜひ鶴岡市温海エリアに遊びに来てください
以上鶴岡市温海エリアの歴史と史跡の
ご紹介でした。
あつみ温泉の歴史と史跡を
ご紹介した記事はこちらです。
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