KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

鶴岡市 尾浦城(大山城)の歴史と史跡をご紹介!🏯

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どーもKABUOです。

 

山形県庄内地方の歴史と史跡を

巡る旅に行ってきました。

今回は中世の城跡、

尾浦城の歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

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尾浦城(大山城)の歴史と史跡をご紹介!🏯

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尾浦城(大山公園)

 

鶴岡市大山にあります尾浦城。

別名大山城とも呼ばれ、

庄内平野の西縁にそびえる高館山から

平野部に細長く突き出た丘陵の先端に立地。

標高50mの大平山に築かれた

連郭式の山城になります。

山上に東西30m・南北58mの本丸。

東西36m・南北54mの西の丸、

東西30m・南北31mの櫓があり、

西方に深い空壕を掘って尾根続きを

断っていたとされます

 

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大山公園案内図

 

築城時期は定かではありませんが

鎌倉時代には築かれていたともされており

本格的に整備されたのが1532年、

庄内地方で勢力を広げていました

大宝寺城主武藤氏(大宝寺氏)は

同じ一族であります砂越氏の攻撃により

居城大宝寺城が焼き払われたため

より堅固なこの城に本拠地を移し、

以後戦国の戦乱のなかで尾浦城は

庄内の拠点として中心的な役割を

果たしていくことなりました。

 

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武藤義氏供養塔(正法寺)

 

戦国時代後期には

武藤氏は越後上杉氏と手を結び

17代当主武藤義氏の時代に最盛期を迎え

最上郡・村山郡・秋田県由利郡まで

勢力を伸ばし侵攻を広げましたが、

1583年、山形城主最上義光と内応した

家臣前森蔵人による突然の裏切りにより

尾浦城は包囲され城は落城、

義氏は自刃し果てる事となりました。

 

尾浦城より北にあります正法寺

武藤氏の菩提寺

武藤義氏の供養塔が建立されています。

 

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尾浦城主武藤家遺蹟塔

 

その後義氏の弟武藤義興が家督を継ぎ

上杉氏家臣本庄繁永から養子を向かえる等、

勢力回復に扮装しましたが、

1587年、東禅寺義長(前森蔵人)ら

庄内国人衆が一斉に蜂起すると

好機と見た最上義光庄内地方に侵攻を進め、

再び尾浦城を包囲すると義興は自害、

養子である武藤義勝は越後へと逃げ延びます。

その後庄内地方は最上氏の統治下となり

中山楯主中山玄蕃を尾浦城代として置きました。

 

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尾浦城址石碑

 

翌年の1588年、

逃げ延びた武藤義勝は上杉氏勢力を背景に

父本庄繁永とともに庄内に侵攻、

最上勢の支城を落とし尾浦城まで攻め入ると

東禅寺義長・勝正兄弟は迎え撃ったが

十五ヶ原の戦いで苦戦を仕入れられ敗北、

合戦後義勝は武藤氏の家督を引き継ぎ

庄内の領地を取り取り戻します。

 

しかし1591年

藤島城を中心に大規模な一揆が行われると

一揆煽動の疑惑を掛けられ大和国に配流

庄内地方上杉景勝の領地となり

尾浦城には下吉忠(下秀久)が入城しました。

 

 

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大山公園中央入り口

 

1600年、関ヶ原の合戦が勃発、

西軍石田三成方でありました

上杉景勝重臣直江兼続

東軍徳川方に与した最上義光

討伐すべく会津より挙兵、

尾浦城主下吉忠も六十里越街道を通り

最上領土谷地城まで侵攻を進めるものの

関ヶ原の合戦は徳川方の勝利に終わり

敗戦の知らせを受けた兼次は

最上領土から撤退を行います。

 

しかし伝達がうまくいかず吉忠は戦場で孤立、

谷地城で最上軍相手に数日間に渡り奮戦するも

力及ばす投降し義光の配下へと加わります。

翌1601年、最上軍は上杉領土である

庄内に侵攻を進め尾浦城を攻め落とし

庄内地方は再び最上氏の領地となりました。

 

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大山下池

 

上杉討伐の戦功により最上義光

秋田県由利郡・雄勝郡等領地が大幅加増され

山形藩を57万石を立藩。

庄内侵攻の先鋒を務めた下吉忠は

功績が認められ尾浦城12000石の

領地が与えられ城を大山城と改名、

吉忠は城池の拡張、城下町の発展を企図し、

城の真下を流れる菱津川の流れを変えて

城池の拡張をした。

 

大平山の城山を本丸とし

中腹の東と西に濠をめぐらして二の丸とし

外側に陣屋川を外濠とする三の丸を築いた。

城主の居館は二の丸北部に置かれ

三の丸には家臣屋敷、

外側に町人町を東と西に区画し、

各職の職人は町人町の外に配置を行う等、

城下町の整備を積極的に行います。

 

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尾浦城本丸跡(三吉神社)

 

しかし1614年、義光の死後

次男家親が家督を継ぐと家親に不満を持つ

添川城主一栗高春は反乱を起こし

酒田城主志村光清とともに吉忠が殺害され

その後一栗高春は討伐されましたが

家臣団の間には不穏な空気が残る事となります

 

1615年、大山城に家親の弟

光隆が入城し大山氏と称し

27000石の領地を与えられましたが、

同年一国一城令により本丸は廃止され

1617年家親の突然の死去により

当主跡目を巡り家臣団が分裂、

1622年、家臣団の争いに

収拾がつかいないことから

これを重く見た江戸幕府

最上家に改易を命じられる事なり

大山城は廃城となりました。

 

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道林寺

 

最上家改易後、庄内地方酒井忠勝

入部し庄内藩を立藩。

1647年、忠勝死去に伴い遺言により

七男酒井忠解が大山に10000石を

分与され大山藩を立藩。

藩主の居館は旧大山城の東麓に置かれ

家臣のため徒町・足軽町・役人町

仲間町が町割りされ

大山から藤島に至る参勤道路備中街道も

整備され開かれましたが

1668年、嗣子がなく藩主急死に伴い断絶

以後大山は幕府領として幕末に至ります。

 

こちらの道林寺は忠解の菩提寺です。

 

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大山地区

 

現在尾浦城は大山公園と呼ばれ、

昭和の初めに地元の大山の酒造家

加藤嘉八郎有邦氏が莫大な私財を投じて

公園として整備化されました。

春は桜の名所として知られ、

大平山から眺める庄内平野や月山は見事です。

山形県庄内地方に観光の際は

大山公園に訪れてみてください。

以上尾浦城(大山城)の歴史と史跡の

ご紹介でした。

 

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