KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

山形市 東沢地区の歴史と史跡のご紹介!(笹谷峠と笹谷街道の歴史編)🏞️

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どーもKABUOです。

 

山形市東沢地区の歴史や史跡の

調査を行いましたので

古来より山形県と宮城県を結ぶ

主要軍道として使用された

笹谷街道沿いを中心に

東沢地区の歴史や史跡をご紹介します

 

東沢地区の歴史と史跡のご紹介!

(笹谷峠と笹谷街道の歴史編)

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東沢小学校

 

東沢地区の歴史ですが1889年

釈迦堂、妙見、小白川、関沢、滑川、

新山、上宝沢、下宝沢が

合併し東沢村が発足。

1954年、山形市に編入され現在に至ります。

 

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有耶無耶の関跡

 

東沢地区には古代の時代より

国府多賀城から笹谷峠を越え

山形を結ぶ主要道、笹谷街道が

使用されておりました。

 

笹谷峠にあります有耶無耶の関跡は

平安時代から殿上人の歌枕にも詠まれ

みちのくの難所として知られており、

冬の期間になりますと

積雪は2~3m以上に及び吹

雪と暴風で旅人は非常に難渋したため

助小屋の役割を果たした

仙住寺跡や尼寺跡の史跡が

残されております。

 

有耶無耶という地名の由来ですが

この峠には人を喰らって悪さをする

山鬼がおり旅人が難儀したのですが

いつの頃から山の中に霊鳥が住み

鬼がいるときは「うや」

鬼がいないときは「むや」と鳴いて

旅人に知らせ難を避けた事から

有耶無耶という地名となりました。

 

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 八丁平の六地蔵

 

笹谷峠沿いにあります六体のお地蔵様。

仙台藩から山形藩に荷物を運ぼうとした

6人の人夫が道に迷い荷を背負ったまま

凍死した悲惨な事故があり霊を慰め

この様な遭難を繰り返さないようにと

道しるべとして建てられたのが

こちらのお地蔵様になります

 

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旧笹谷街道の石畳

 

江戸時代になりますと

街道沿いにあります新山、関沢地区に

宿場町が形成され仙台、山形に向かう

人の往来や荷物の運搬の人々で

賑わいをみせました。

 

現在笹谷街道は

山形市から宮城県川崎町を結ぶ

国道286号線が通っており道沿いには

旧笹谷街道の旧道跡である石畳が

残されておりました。

 

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延福寺薬師如来と裸地蔵

 

東沢地区新山にあります

全国にも珍しい裸のお地蔵様が

参道に祀られている延福寺。

最上家始祖であります斯波兼頼が

薬師寺別寺であった延福寺に

寺領を与えたのが始まりだとされ

本尊は薬壺を持った薬師如来で

特に眼病には霊験新たかな仏様とされ

厚く信仰されております。

 

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朴地蔵尊

 

笹谷街道沿いにあります朴地蔵尊。

境内に大きな朴木が繁っておった為、

いつの頃からほうのき地蔵と呼ばれ

笹谷街道の一名所として

誰知らぬものがなく昔から親しまれ

深く信仰されたお地蔵様です。

 

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白鬚神社

 

 東沢地区滑川にあります白鬚神社

16世紀の頃

大暴風で馬見ヶ崎上流のよし沼が

決壊し大洪水になった時、

荒れ狂う白波に乗って白髪白鬚の

老翁が忽然と現れ、洪水を鎮め

人々を救った伝説が残る神社です

 

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菰張山(こもはりやま)

 

1051年~1062年

源頼義、義家親子と

安部貞任、宗任兄弟が争った

前九年の役での戦いの際、

貞任、宗任兄弟がこの菰張山に

陣を作り抗戦したが、

最後に陣に菰を張り

人が居ると見せかけ撤退をしました。

その後、この山を菰張山と

称するようになりました。

 

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唐松観音

 

笹谷街道を下り東沢地区の麓に

差し掛かる所にあります唐松観音

歴代山形城主からの信仰も厚く

最上三十三観音5番礼所になります。

 

一条天皇の正歴元年(990)、平清水の郷民森山氏の妻が戦死した夫の冥福を祈るため、唐松山の霊窟に観音像を祀り河岸に草庵を結んだ、これを「江滸尼公庵」と言った。これが寺のはじまりとされている。

馬見ケ崎川の上流に住む藤原藤太(炭焼藤太とも称)に、京都一条殿の豊丸姫という美女が清水観音のお告げによってはるばる訪れ、奥州宝沢の里に辿りつき藤太の妻となった。その豊丸姫の念持仏の弘法大師作一寸八分金無垢の聖観音像を、藤太が永久元年(1113)唐松山の霊窟に祀って、その前に堂宇を建て拝殿とし、衆人と共に崇敬していた。これが唐松の始まりであると伝えられている。

その後、人々の信仰を集めるようになってにわかに松宗庵と護国寺の二人が別当と名乗り出て、役所に訴訟を起こした。しかし、二人共その根拠がなかったのでその職を解かれ、改めて裏山の山守頭を務めていた石井奥太夫宗吉を別当職に任じたのである。

寛文元年(1661)三月、時の山形城主松平下総守忠弘(清長)は深く唐松に帰依し、居城鬼門の守護仏として鎮城護国の道場に定めて観音堂創建を計り、郡奉行市川七郎右衛門、日向六郎兵衛、竹下三郎太夫に命じて建設に当たった。三人は京都清水の観音の舞台を模して、総檜材懸崖造りの荘厳な大悲閣を建立したのである。

その後、堀田家の再建(1706年)、水野家の大修理(1856年)等、代々の城主が修復に心を配って来たが、昭和の代となり御堂は荒廃甚だしくなったため再建の話が持ち上がり、信者からの浄財をもって、昭和五十一年五月に新観音堂の落成を見たのである。

( 最上三十三観音公式ホームページ引用)

 

お堂に入りますと

山形村山地方で古くから行われている

死者に婚礼の儀式を施す

ムサカリ絵馬が奉納されており

村山地方の神秘的な風習を

見ることが出来ます。

 

笹谷街道はここから千歳山を通り

山形市三日町まで続き

出羽三山向かう行者や参拝客が訪れ

大いに賑わいを見せました。

 

以上

東沢地区の歴史と史跡

(笹谷峠と笹谷街道の歴史編)の

ご紹介でした

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