KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

山形市 村木沢、大曽根地区の歴史と史跡をご紹介!🏞️

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どーもKABUOです。

 

2019年7月、山形市にあります

村木沢、大曽根地区の歴史と史跡の

調査を行いました

 

同地区に戦国時代の楯跡、若木楯や

最上義光の妹である義姫の

史跡が残っており魅力溢れる

同地区のご紹介をわかりやすく

説明出来ればと思います

 

村木沢、大曽根地区の歴史と史跡をご紹介!

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 村木沢小学校

 

村木沢地区の歴史は

1889年、旧村木沢、若木村が

合併し村木沢村が発足。その後

1956年に山形市に編入されます

 

同地区で栽培される

伝統野菜悪戸いもは

 極めの細かい舌触りとねばりで

 全国的に知られている

特産品として有名です

 

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若木楯

 

山形市若木の正面の小高い山に

若木楯がありました

築城年間は不明ですが伝承によると

応永年間(1394~1427)頃

最上家2代目当主最上直家に

見いだされた新関吉綱によって

築城されたと伝わっております

 

新関氏はその後、最上家の被官となり

地域一帯を統治しますが

1574年に起こった

最上義光、義守親子の家督争い

天正最上の乱の最中、

義守に加担した為、義光勢に若木城を

攻め込まれてしまいその後

義光方に仕えた歴史が残っています

 

天正最上の乱の記事はこちらです

tohokuhistory.yamagatakabuo.online

 

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広福寺

 

若木楯隣にあります広福寺は

若木楯城主、新関吉綱の

開基したお寺で境内には吉綱の

供養塔が建立されております

 

その後、1622年

最上家の改易によって

若木城は廃城となり

現在若木楯跡は農地化していますが

当時の遺構が随所に見られ

面影が残っておりました

 

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愛宕八幡神社

 

こちらの神社は

元々、最上義光が開基した

宝性院というお寺でしたが

明治元年に行われた神仏分離によって

愛宕神社となり宝性院は廃寺し

残った建物が社務所となります

 

その後、若木部落の鎮守八幡神社を

合祀して愛宕八幡神社となりました。

 

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阿弥陀堂

 

村木沢悪戸にあります

こちらの阿弥陀堂は

最上義光の妹であり伊達政宗の母

義姫が嫁ぎ先の伊達家から

訳あって山形城に戻り

南舘の地で念仏三昧の生活を

送っておりました

 

ある夜に本尊の阿弥陀如来の尊像が

消え失せたが悪戸地区で発見され

これも何かの縁があると思い

尊像が発見された場所に阿弥陀堂を建て

安置し義姫はお参りする為に

毎日通ったと伝わっています。

 

その後、最上家は改易されると

義姫は伊達政宗のいる

仙台に引き取られ阿弥陀同は

現在地に移される事になりました

 

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白山神社

 

村木沢悪戸にあるこちらには

不思議な逸話が伝わっております

 

悪戸部落のこんもりと繁った杉林の中に建っている白山様は、祭神を白山比咩神(しらやまひめのかみ)とい、山の神である。慶長の初め頃(三九三年前)最上義光の妹義姫(独眼竜政宗の実母)が故あって米沢から里方の山形に帰り、悪戸に草庵(局屋敷 つぼねやしき)と阿弥陀堂を建て念仏三昧の生活をされた。最上義光公は妹義姫の守護役として加藤掃部左衛門清次という500石どりの武士を悪戸に遣わした。掃部左衛門が或る時、所用があって山形城に参った帰り、山形城二の丸の西門附近で、当時お堀の工事中であったが、その現場に光る美石を発見し、それを共の人夫に運ばせた。悪戸の部落に入り邸の近くまで来た時、この石がにわかに重くなり、一歩も運ぶことが出来なくなった。掃部左衛門は直ちに山形城に参上して、このを義光公に注進した所、義光公も不思議に思われ熊野神社(六日町)の別当行蔵院を遣わして祈祷神おろしを行った。7日の満願の日に美石が申すには、自分こそは白山権現で義光公の前までは最上氏から信仰されていたが、義光公の城普請にあたり投げ捨てられたものである、との告げがあった。そこで義光公は直ぐに三尺四方の御堂を建て、彼の美石を安置して祀られたのである。その開眼供養の祭りには100万石の太守義光も自ら参詣された。この時、義光は三〇間四方の社地と田畑九反七畝を社領として、又、美石を運んだ人足(加藤半三郎の先祖と伝えられているが、現在は悪戸の加藤惣右衛門家が別当である)を神主として下し置かれた田畑も支配させ、その作徳米を以て年々祭礼をおこなっている。祭礼日はご神体を運んで来た8月朔日である

(村木沢コミュニティサイト引用)

 

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長岡楯跡

 

最上氏の支城で別名村木沢楯

慶長出羽合戦の際に

上杉軍が退去した際

こちらで夜営したと伝わっており

重症の軍奉行であった

溝口左馬介が同夜果て

その首洗井戸が今も

水をたたえております

 

当時の石垣がはっきりと残っており

見ごたえがある楯跡でした。

 

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出塩文殊堂

 

別名あじさい寺と呼ばれ

毎年6月下旬から7月中旬まで

あじさい祭りが開催されています

 

あじさいが咲き誇る出塩文殊堂を

紹介している記事はこちらです。

tohokuhistory.yamagatakabuo.online

 

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大曽根小学校

 

大曽根という地名は古く

平安時代から南北朝時代の頃から

奥州藤原氏や鎌倉幕府地頭

安達氏が村山西南部一帯である

大曽禰荘統治した大変深い

歴史のある地区になります

 

大曽根地区は

1889年

古館、上反田、下反田、常明寺、

滝平、芳沢の6ヶ村が合併し

大曽根村が発足しその後

1956年に山形市に編入され

 

毎年須川で行われる花火大会で

多くの山市民が訪れる地区になります

 

大曽根地区に

地区の紹介サイトでは

史跡を多く紹介されていたのですが

詳しい説明がなされておらず

現地で調査をおこなっても

案内板を無いので調査に一苦労。

 

その為、ほとんどわからず

仕舞いでした( 。゚Д゚。)

 

歴史ある土地柄なのですから

もっと案内板の設置を

してほしいものです( `Д´)/

 

最後は少し愚痴になってしまいましたが

 

以上

村木沢、大曽根地区の

歴史と史跡のご紹介でした。

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