どーもKABUOです。
2019年7月
山辺町にあります作谷沢地区の
歴史と史跡の調査を行いました。
今回は山辺町畑谷にあります
戦国時代の遺構がはっきりと残る
畑谷城と城主江口光清の歴史と史跡を
ご紹介します。
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畑谷城と城主江口光清の歴史と史跡をご紹介!
畑谷城案内図
山辺町畑谷地区は
山形城から置賜地方白鷹長井を結ぶ
狐越街道が同地区を通っており
戦国時代にはその重要性から
山形城の支城、畑谷城が築城され
白鷹、長井を統治した
伊達氏を牽制し防備しておりました。
畑谷城案内板
畑谷城の手前には駐車城が完備され
また地域のボランティアの方が
駐留している休憩所もありますので
非常に訪れやすくなっております
畑谷城跡
1600年
東北の関ヶ原慶長出羽合戦の際に
直江兼続率いる上杉軍は
米沢から白鷹、狐越街道を通り
最上義光家臣、江口光清が治める
畑谷城に侵攻します。
江口光清は非常に
教養深い人物だったそうで
京都に上洛の際には義光と同伴し
京都の人々の交流するとき補佐を勤め
数多くの連歌を残し
文化人としても優れており
当初は山形市村木沢にあります
長岡楯主でありましたが
更に重要拠点であります
畑谷城を任される事から
義光の信頼が厚い人物でした。
お城の主郭までは山道を登りますが
道は良く整備され
傾斜はそれほど急ではありませんが
靴だけはしっかりとしたものを
履くことをおすすめします。
主郭まで登る途中には
お城の空堀がはっきりとと鑑賞でき
戦国時代の山城の様子がよく分かる
貴重な遺構が残されておりました。
畑谷城主郭跡
上杉軍の兵力は約25000
対する最上義光は約7000と
兵力に倍の差があった為、
義光は兵力を集中するべく
各支城城主に山形城、長谷堂城
上山城に招集の命令を出しますが
江口光清は
「常々この城をあずかっているのは、
このような時のためでございます。
いま危うい時に城を捨てたとあっては
武士の名折れ。もとより一命を捨てる
覚悟であるからぬは、ここで華々しく
討ち死にし、忠義の心を後世に残す
所存でございます」と討ち死に覚悟で
兵300人と共に籠城。
直江兼続は光清を高く評価しており
計略を駆使して
味方に率いれようとしましたが
断固拒否した為、戦いの火蓋が
切って落とされる事となりました。
光清は畑谷城南部にある鵜川をせき止め
水堀として備え守りを固めましたが
上杉軍の大軍に押し進められ
僅か4時間ばかりで落城してしまい
光清共にお城にいた全ての兵が
撫で斬りされこちらの念佛壇で
打ち取った首を並べられ
検分されたと伝わっております。
また光清の戦死にに憤慨した
最上家家臣、飯田播守や谷柏直家は
光清の首を取り戻そうと
この畑谷城まで駆けつけますが
逆に返り討ちにあってしまい
播守はこの地で戦死しました
長松寺、江口光清墓所
畑谷城の隣にあります長松寺は
光清が開基され戦死した
光清の墓所になっており、
毎年戦いのあった9月13日には
御霊を供養する為に灯籠流しが
行われているそうです。
空堀がしっかりと残っており
見ごたえもありますし
出羽合戦の歴史も学べ
また江口光清の忠義にまつわる
エピソードは歴史ストーリーとしても
面白いのでぜひ畑谷城の散策に
お越しください(* ̄∇ ̄*)。
以上、畑谷城のご紹介でした。
こちらがお城の場所です。
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