KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

秋田県八郎潟町の歴史と史跡をご紹介!

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どーもKABUOです。

 

秋田県南秋田郡の歴史と史跡を巡る

旅に行ってきました。

今回は戦国時代には

檜山安東氏と湊安東氏が争った浦城や

江戸時代には宿場町としても栄えた

八郎潟町の原始古代から近現代までの

歴史や史跡を巡りましたので

年代を順に追ってご紹介します。

 

八郎潟町の歴史と史跡をご紹介!

 

八郎潟町役場

 

南秋田郡の北部に位置する八郎潟町、

町中心地から南には馬場目川が流れ

西には日本で2番目に大きい湖であった

八郎潟が広大に広がったのどかな田舎町。

 

町中心街は一日市町と呼ばれていましたが

1956年、一日市町と面潟村が合併、

町の歴史を支えた八郎潟から名前を取り、

現在の町名となったそうです。

 

 

諏訪神社

 

原始から古代にかけ

馬場目川沿いや周辺の山麓に

集落を形成された痕跡が発見されており、

また大和朝廷の北進政策によって、

秋田城を中心に秋田郡地域の開拓が行われ

隣接する五城目町ともに

秋田郡率浦郷に属しておりました。

 

北進政策は南からの入植者が増える一方、

先住民である蝦夷との間に対立が生じ、

878年の元慶の乱を代表するなど、

蝦夷と朝廷の間で激しく争われました。

 

こちらの諏訪神社は

神功皇后が三韓征伐の航路の途中に

激浪に遇い漂流し蝦夷ヶ港に御着し

諏訪明神を祀った事から

始まりだと伝わり、

町指定文化財に登録されています。

 

 

小池板碑群

 

平安時代から鎌倉時代にかけ、

出和国を統治していました

豪族清原氏が後三年の役による没落後、

奥州藤原氏は

岩手県平泉を拠点に繁栄を極め

南秋田郡を一帯は従臣大河兼任によって

統治管轄が行われていました。

 

しかし1185年、鎌倉幕府の成立にともない

奥州合戦によって奥州藤原氏は滅亡、

南秋田郡地頭に橘公業が入部を行うと

大河兼任は反乱を起こしましたが、

鎌倉幕府によって鎮圧処分されました。

 

こちらの小池板碑群は

鎌倉時代から室町時代初期にかけて

追善や生前供養ために建立された石碑で

町指定有形文化財に登録されています。

 


御前柳神社

 

中世戦国時代に入りますと、

秋田県津軽地方で勢力を広げた

津軽安東氏は南部氏の抗争に敗れ、

秋田へと逃れると檜山郡(現山本郡)・

南秋田郡・豊島郡(現河辺郡)へと勢力を広げ

戦国大名として各地で領土争いを行います。

 

安東氏は檜山安東氏・湊安東氏と別れ、

各領土の統治が行われていましたが、

1587年、湊合戦と呼ばれる湊安東氏による

檜山安東氏との一族同士の内紛が勃発します。

 

浦城城主三浦盛長は

湊安東氏方として戦いに参戦しましたが、

檜山安東氏方の反撃によって

浦城は落城し自害に追い込まれると、

檜山安東氏当主実季は名を秋田と改め、

一族の統合を成し遂げました。

 

こちらの御前柳神社は

浦城主三浦盛長の身重の奥方が

この地まで逃れ男児を出産した後に、

腰元7人と共に自害したと伝えられています。

 

浦城の歴史と史跡を

ご紹介した記事はこちらです。

tohokuhistory.yamagatakabuo.online

 

 

三倉鼻公園

 

1600年、関ヶ原の合戦により

秋田実季節は常陸国宍戸へと移封されると、

常陸国で大勢力を広げた

佐竹義宣が入れ替わるように

秋田県へと入部を行い久保田藩を立藩。

以後幕末まで佐竹氏に統治が行われます。

 

佐竹氏は久保田城下までの

街道整備を積極的に行い、

青森県弘前市まで向かう

羽州街道の整備が本格的に行われると、

八郎潟町から三種町琴丘までを繋ぐ

三倉鼻の整備を行い、

町中心街であります一日市に宿駅を設け、

以後宿場町としての栄える事となりました。

 

現在三倉鼻は公園として整備され

公園からは八郎潟が望める

絶景スポットとなっていました。

 

 

願人踊

 

現在八郎潟町では八郎潟で水揚げされた

特産品のわかさぎの他に

毎年5月5日に開催される

願人踊は県指定文化財に登録されています。

秋田県にお越しの際は

ぜひ足を運んでみてください

 

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