KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

にかほ市・由利本荘市 由利十二頭の歴史と史跡をご紹介!(由利五人衆編)🏯

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どーもKABUOです。

 

秋田県にかほ市由利本荘市を含む

由利地方の歴史と史跡を

巡る旅に行ってきました。

今回は中世から戦国時代までをかけ

この地域を治めた国人衆、

由利十二頭の関する

歴史と史跡をブログにまとめました。

 

今回は豊臣政権化で由利五人衆と呼ばれた

仁賀保氏・滝沢氏・赤尾津氏・打越氏

岩谷氏の歴史をご紹介します。

 

 

 

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由利十二頭の歴史と史跡をご紹介!(由利五人衆編)🏯

 

由利十二頭ですが現在の秋田県

にかほ市由利本荘市を中心に

この地を治めた12人数えられる

小領主の国人衆(豪族)になります。

 

秋田県北の安東氏、県南の小野寺氏

山形県庄内地方の武藤氏(大宝寺)と

地域事によって大きな戦国大名

統治を行っておりましたが、

秋田県由利郡は大きな戦国大名は誕生せず。

小勢力を誇る国人衆複数によって治められ、

戦国時代。戦乱の最中時勢を見計らい

各勢力に与する事によって生き延び、

または滅ぼされて江戸時代を迎えました。

 

由利十二頭の勢力ですが主に

矢島氏・仁賀保氏・赤尾津氏・潟保氏

打越氏・子吉氏・下村氏・玉米氏

鮎川氏・石沢氏・滝沢氏・岩屋氏・羽川氏と

資料によっては芹田氏・沓沢氏も

由利十二頭に数えられる事があるそうで、

名称の由来ですが

古来より山岳修験によって栄えた

鳥海山の本地である薬師如来眷属である

十二神将をなぞったものだと考えられています。

 

由利十二頭の出生ですが、

伝承によると主に甲斐よりこの地に入部した

小笠原氏流の大井氏を祖とする

国人衆が過半数を占めております。

戦国時代に入りますと最も勢力を誇った

仁賀保氏・矢島氏との争いが激化するなか

最上義光の後ろだてを得た仁賀保氏によって

矢島氏は滅亡へと追い込まれる事となります。

 

また豊臣政権化に時代が移行すると、

仁賀保氏・赤尾津氏・滝沢氏

打越氏・ 岩屋氏は由利五人衆と

呼ばれるようになり、

檜山城主秋田実希と行動を共に

関ヶ原の合戦を経て戦後報奨によって

大名への取り立て、

またはお家取り潰しが行われ

由利十二頭は離散する事となりました。

 

さてここからは由利十二頭の

各領主と歴史や関連する歴史をご紹介します。

 

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山根館

 

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禅林寺

 

現在のにかほ市を中心に

勢力を広げた仁賀保氏。

先祖は大井氏を称し

由利十二頭の中でも赤尾津氏に次ぐ

最大勢力を誇りました。

 

戦国時代には隣接する

同族矢島氏との抗争を繰り広げ、

小田原征伐に参陣した事から

所領は安堵さとれ由利五人衆の

一人として数えられ

豊臣秀吉に従事しました。

 

関ヶ原の合戦では

山形城主最上氏に従事した事から

戦後領土は加増され常陸国武田に

領土が加増されるも、

後に大阪の陣で再び戦功を挙げた事により

旧領に帰参が認められ仁賀保藩を立藩。

由利十二頭の多くは領土を失い

戦いに破れ滅亡するなか、

仁賀保家はお家取り潰しを逃れ

生き残る事が出来た数少ない人物でもあります。

 

にかほ市院内には居館とした山根城や

菩提寺禅林寺の他に平沢地区には

仁賀保藩の陣屋跡が残されています

 

仁賀保氏の歴史と史跡を

詳しく紹介した記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

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滝沢城

 

 

慶祥寺

 

由利本荘市前郷地区を

本拠地とした滝沢氏。

由利十二頭の多くの国人衆は

小笠原氏流の大井氏にルーツを持つと

称しているものが多いですが、

滝沢氏は由利氏にルーツを持ち、

大井氏が由利地方の入部する前に

由利地方で地頭職を勤めた一族です。

 

隣接する矢島氏とは領地を争い

戦いに敗れ一時没落するも

最上義光の家臣に取り立てられ

矢島氏滅亡後に由利衆に復帰を果たし、

関ヶ原の合戦後には

1万石の大名に取り立てられ、

滝沢城の築城を行いました。

 

前郷地区には滝沢城の他に

菩提寺慶祥寺が残されており

町歩きをしながら

ぜひ史跡の散策を行って欲しいです。

 

滝沢氏の歴史と史跡を

詳しく紹介した記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

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高城城跡(赤尾津城)

 

 

光禅寺

 

由利本庄市松ヶ崎・岩城亀田地区を

本拠地とした赤尾津氏。

仁賀保氏と同じく大井氏にルーツを持ち、

松ヶ崎・亀田地区を含め

日本海に注ぐ衣川流域一帯を

その昔赤尾津と呼ばれた事から

地名を取り赤尾津氏と名乗りました

 

本性は小介川といい、

戦国時代には周辺各大名の動きに乗じ、

北大曲城前田氏の攻略や、

由利十二頭の一人羽川氏の居城への強襲、

また由利地方を一時庄内の戦国大名

武藤義氏が占領した際も、

安藤氏と手を結び抵抗を続けたとの

記録が残されています。

 

豊臣政権化では

九戸政実の乱鎮圧の功により

由利五人衆の一人に数えられ、

五人衆の中では最大の4300石の

所領が安堵される事となりましたが、

1600年、関ヶ原の合戦では

東軍方の最上義光に与しておりましたが、

上杉軍の激しい侵攻を目の当たりにし、

無断で退却を行ったため、

戦後この事が咎められ所領は没収され、

一族は山形藩久保田藩・矢島藩等に

仕えたとされています。

 

由利本荘市岩城亀田には

居城で使用した高城城の史跡や

松ヶ崎地区には菩提寺光禅寺が

残されております。

 

 

平岡館跡(白山神社)

 

 

恵林寺

 

由利本荘市内越を

本拠地とした打越氏。

打越氏の出自には諸説あり、

他由利十二頭と同じく

大井氏にルーツを持つ説、

さらには南北朝時代に活躍した

楠木正成の三男正儀が奥羽に下向させた

長男正家にルーツがあるとの説があり、

由利本荘大内町には

正家の物だと伝わる墓碑が残されています。

 

打越氏は同じく由利十二頭の

仁賀保氏・赤尾津氏と共に行動を行い、

1590年の小田原の陣に参戦した事から

所領は安堵される事となり

仁賀保氏・赤尾津氏とともに

豊臣政権では由利五人衆の一人として

朝鮮出兵の際には名護屋城へと在城しました。

 

1600年、関ヶ原の合戦では最上義光ともに

上杉領庄内領への出兵に参加したことから

戦後領地が加増され常陸国新宮を与えられます。

その後大阪の陣によって功績をあげ

由利本荘市矢島に領土を与えられる事となり

菩提寺龍源寺の造営等を行いました。

 

旧領地由利本荘市内越には

当時館として使用した平岡館跡や

菩提寺恵林寺が残されています。

 

矢島時代の打越氏の歴史を

こちらの記事でもご紹介しています。

www.yamagatakabuo.online

 

 

 

岩谷麓古館跡

 

 

永傳寺

 

由利本荘市岩谷を

本拠地とした岩谷氏。

岩谷氏は天文年間(1532年~)

信州(長野県)より入部し説や、

仁賀保氏・矢島氏と同じく

大井氏にルーツを持つ説と

出自が不明な点が多い人物です。

 

岩谷氏は中世庄内地方を治めた

尾浦城主大宝寺氏との関係を深め

書状を交わすなどの記録が残されている他、

1590年、豊臣秀吉によって

奥州仕置きが行われた際は所領は安堵され

豊臣政権下では伏見城の作事や

朝鮮出兵の軍役を負担等を行い、

由利五人衆の一人として数えられました。

 

1600年、関ヶ原の合戦では

東軍方の最上義光に与した事から

戦後最上家臣団に組み入れされ

由利本庄市大内地域の

領主として統治を行いましたが

1622、最上家が改易されると

以前親交があった安藤氏や

久保田城主佐竹氏に仕えたとされています。

 

由利本庄市岩谷麓地区には

岩谷氏が居館を行った古城跡や

菩提寺永傳寺が残されています。

 

以上由利五人衆の

歴史と史跡のご紹介でした。

次回は仁賀保氏と争った矢島氏や

残りの由利十二頭の国人衆をご紹介します。

 

由利十二頭の歴史と史跡

続きの記事はこちらです

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