KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

酒田市 松山城の歴史と史跡をご紹介!🏯

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どーもKABUOです。

 

山形県庄内地方の歴史と史跡を巡る

旅に行ってきました。

今回は酒田市旧松山町にあります

松山城と同城を治めた松山藩

歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

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松山城の歴史と史跡をご紹介!🏯

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総光寺

 

酒田市新屋敷にあります松山城跡、

その歴史です松山城の前身となります

陸奥国での戦いに破れこの地に逃れた

佐藤正信によって現在の酒田市稲荷沢付近に

中山館を築城した事が始まりだとされ、

佐藤正信は1185年の屋島の戦い

源義経を矢から庇い討死した

佐藤継信の子孫だとも

言われている人物です。

 

1384年、陸奥国胆沢郡(現岩手県)

永徳寺の月庵良円によって

総光寺が開山されると

正信は月庵に深く帰依し創建にも携わり、

方5町を寺地となし福田200石を

寄進したと伝えられています。

しかしその後の

佐藤氏の歴史は不明となっており

1532年、庄内地方土豪の争いによって

総光寺も一度破却される事となりました。

 

こちらの総光寺は2度の火災を経て再建、

松山藩士の菩提寺としても利用され

佐藤正信一族を供養する開基堂の他に

参道のキノコスギ山形県天然記念物、

総光寺山門は酒田市重要文化財

総光寺庭園は国指定名勝に登録され

とても見応えのある寺院となっています。

 

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中山神社

 

戦国時代にかけての

松山地区の歴史ははっきりとしておらず

大宝寺城主武藤氏(大宝寺氏)、

砂越城主砂越氏やその他土豪勢力によって

統治していたと思われます。

その後武藤氏 17当主義氏によって

庄内地方が地方が統一されましたが、

強引な政治手腕に嫌気が差した

国人衆らの反乱によって居城が襲われ

1583年、武藤義氏は自刃しました。

 

その後、庄内地方の覇権を巡り

上杉景勝最上義光のよって争われ

1588年、十五里ヶ原の戦いで

最上連合軍は戦いに破れ

上杉氏が庄内地方を手中に収めましたが、

土豪を中心に検地反対一揆が各地で起こり、

上杉氏はその対処に

追われる事となりました。

 

こちらの中山神社は松山地区の

総鎮守として1648年に創建され

藩祖酒井忠次徳川家康の嫡男で

21歳の若さで不幸の死を遂げた

松平信康が祀られており、

5月1日の祭礼では武者行列が展開され、

松山藩に伝わる荻野砲術の

演舞が公開されています。

 

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心光寺(酒井家御廟所)

 

 1600年、関ヶ原の合戦後、

戦いの恩賞により庄内地方を与えられた

最上義光山形藩を立藩すると、

志村光安が東禅寺城代(亀ヶ崎城)となって

松山地区は治められていましたが、

1622年、最上家が改易されると

新たに酒井忠勝庄内地方に入部、

庄内藩を立藩すると

松山地区も庄内藩領となり

中山館跡地に中山陣屋を

創設し政務が行われました。

 

その後1647年、酒井忠勝の死去に伴い、

三男酒井忠恒は現在の松山地区8000石、

村山郡左沢領(現大江町左沢)12000石を

分封され松山藩を立藩。

当時中山という地名で呼ばれておりましたが

鶴ヶ岡城・亀ヶ崎城にちなみ、

藩の繁栄を願い縁起をかついで

名前を松山に改称した事が

旧松山町の町名の由来となっています。

 

忠恒は菩提寺である

心光寺の創建を努めましたが

2万石の大名ではあるものの城持を許されず

現在生涯学習施設里仁館

(里仁館高等学校跡)に

居館を設け政務を行いました。

 

こちらの心光寺には

歴代松山藩主が埋葬された御廟所があり

酒田市指定史跡に登録されています。

 

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松山城大手門広場跡

 

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上堰通り

 

1663年、 忠恒は幕府から

駿府の警護にあたる駿府加番に命じられ、

2代藩主酒井忠予は

大坂御加番代や江戸増火消を歴任、

3代藩主酒井忠休は奏者番寺社奉行加役、

西丸若年寄・二の丸若年寄・本丸若年寄

江戸幕府重臣として政務を行った結果

5000石が加増され

実高25000石となり

松山に築城の許可がおりると

1782年、庄内藩の援助を受け

鶴岡宮田流軍師長坂十大夫の設計を受け

工事が着手され

7年の歳月と莫大な資金を投じ、

二の丸・土塁・壕・大手門が

完成されました。

 

こちらの大手門広場跡にあります上堰通りは

江戸時代は農業用水に使用された他、

松山城の防護策の役割として

利用されました。

 

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十三間堀(外堀公園)

 

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本丸の土塁

 

松山城域は

東西468m・南北864m程となっており

本丸を東・南・北の三方から二の丸が囲み、

さらに南・西・北の三方から三の丸が囲み

西に大手門がありました。

 

松山城は現在の歴史公園を

中心に町割りが進められ

日本でも最も新しい城の一つとして

整備されてゆきます。

その縄張りは当時複雑に発展した

軍学理論の影響をうけ、

直線や曲線を多用した

幾何学的な設計であったといいます。

(現地案内板引用)

 

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松山城大手門

 

しかし江戸での重臣の政務を全うする中、

江戸表経費の支出が重なり、

江戸藩邸や松山での火災による支出増、

領内での凶作は藩財政を圧迫する事となり、

藩主忠休の退隠・忠休側近派の追放

家臣の救済を求める宝暦事件が発生する等、

不安定な政策が続けられた結果、

財源不足や藩主の死去により工事は中断。

その後戊辰戦争では庄内藩と共に行動し、

新庄藩久保田藩への攻撃や

藩境の国境の守備を行いましたが、

庄内藩の降伏ににより戦争は終結

未完の城として明治時代を迎える事となり、

大手門を残し城は破却される事となりました。

 

こちらの松山城大手門は

1790年、落雷により大手門が炎上すると

酒田の豪商本間光丘・重利父子の

寄進によって再建された歴史を持ち、

山形県の中で唯一現存する城門遺構で

山形県指定有形文化財に登録されています。

 

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松山歴史公園

 

現在松山城は歴史公園として整備され

松山文化伝承館や松山城址館では

松山城や松山地区の歴史が学べる他、

城下町の風情が残り町歩きや史跡巡りにも

おすすめしたい

歴史観光スポットとなっています。

山形県酒田市に観光にお越しの際は

ぜひ松山城に訪れてみてください

 

 

こちらが松山城の場所です。

 

酒田市の城郭・城跡

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