KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

酒田市 砂越城の歴史と史跡をご紹介!🏯

スポンサーリンク

どーもKABUOです。

 

山形県庄内地方の歴史と史跡を巡る

旅に行ってきました。

今回は酒田市旧平田町の中世の城跡

砂越城の歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

砂越城の歴史と史跡をご紹介!🏯

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211209181351j:plain


砂越城本丸公園

 

酒田市砂越楯之内にあります砂越城。

最上川と相沢川の合流点西方の段丘上に立地、

標高8mの平地に築かれた単郭方形式の平城。

本丸は東西670m・南北435mで

方形に土塁・空壕が遺存し、

現在諏訪神社の境内となっている。

本丸東方の日枝神社にも

南北に延びる土塁が残り、

かなりの規模を有していたと推測され、

城跡一帯から柱根や井戸跡が発見されている。

(角川地名辞典引用)

また三の丸の外壕は

最上川に通じる運河の役割をはたし

郷蔵物資運送の役割を

はたしたともされています。

 

砂越城を見学する際、

公園には駐車場が完備されていますので

気軽に散策が可能となっています。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211209181413j:plain

 

砂越城縄張り図

 

砂越城の歴史ですが平安末期の1154年、

播磨(兵庫県)の豪族赤松氏の3男石黒氏が

当地に館を設けたのが始まりだとされ、

その後石黒氏は館を砂越氏に明け渡し

酒田市松山に移り住んだと伝えられています。

1189年、源頼朝奥州藤原氏を滅ぼすと、

大泉荘の地頭に任命された武藤氏の庶族、

砂越氏が出羽の郡司に任ぜられ鎌倉より下向。

政所(酒田市政所)において政務を執ったが、

ほどなく砂越城に入り居城としました。

 

現在住宅街が並び遺構は本丸の他、

消失してしまいましたが、

縄張り図を確認すると周辺を水堀が囲み、

東方に二の丸・南方に大河最上川が流れ

強固な平城になっている事がよく分かります。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211209181430j:plain

 

砂越城本丸跡

 

鎌倉時代南北朝時代の足取りは不明ですが

室町時代の1443年、

城主砂越氏信は戦いに破れ砂越城は落城、

斯波氏4代の矢口将監氏益が城主となり

砂越と名前を改称すると勢力を伸ばし

1478年、氏益の子砂越氏雄は

室町幕府9代将軍足利義尚に直礼し、

信濃守に任官され飽海3万石を受けました。

 

現在砂越城本丸は諏訪神社が建立されており

神社の鳥居を進むと

こちらの史跡碑が設けられています。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211209181506j:plain


諏訪神社

 

勢力を拡大するこの頃から

宗家である武藤氏から独立の気配を示し、

戦国時代に入りますと庄内地方の覇権を巡り

宗家大宝寺城主武藤氏と

領土を争い激しく対立。

1512年、砂越氏雄は

挙兵し武藤澄氏を破る活躍を見せましたが、

翌年1513年再び大宝寺城へと攻め寄せた際

大敗を喫し氏雄父子は討死、

その後、息を吹き返した武藤氏によって

砂越城は攻められ落城する事となりました。

 

砂越城本丸跡に建立された諏訪神社

724年に信濃諏訪大社より

感請されたと伝えられており、

砂越城廃城後の1698年に再建されたと

記録に残されています。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211209181522j:plain

 

砂越城水壕跡

 

砂越城を攻め落とした武藤氏は1518年、

一族である氏維を砂越城の城代として派遣、

砂越氏の家督を継がせると共に、

飽海郡一帯を勢力に治めることを画作します。

 

しかし砂越を受け継いだ氏維は

宗家からの支配を嫌い次第に独立傾向を強め、

武藤氏とは度々一族同士で紛争が行われ、

1533年、大宝寺城下を焼き払う等の

激しい戦果を挙げたと記録に残されています。

その後、武藤氏の後ろ楯である上杉氏や

姻戚関係でありました檜山安東氏の仲介もあり

武藤氏とは和睦を結び

以後武藤氏の傘下に入り、

庄内地方の統一の足掛かりを築きあげました。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211209181540j:plain

 

砂越城本丸土塁跡

 

庄内統一を果たした武藤氏は秋田県由利郡

山形県最上郡・村山郡まで勢力を広げ

17代当主武藤義氏の時代最盛期を迎えましたが、

その強引な領国経営や過酷な圧政から

庄内の国人衆から激しい反発を受け、

1583年、山形城主最上義光の調略を受けた

武藤氏家臣前森蔵人ら

有力国人衆らの謀反により

居城尾浦城を攻め込まれ自する事となります。

 

その後、義氏の弟義興が家督を引き継ぎ

上杉氏家臣本庄繁長から養子を向かえる等、

武藤家の復興に尽力しますが、

逆にそれが最上方勢力の反発を招き

1587年、最上義光と庄内国人衆によって

攻め滅ぼされる事となりました。

この間、砂越氏は羽黒山関係者から

没落寸前の武藤氏を救済するために

檜山安東氏とともに最上氏への

仲介が依頼されたとの記録が残されています。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211209181602j:plain

 

砂越城資料館

 

庄内地方を手中に収めた最上義光でしたが

義興の養子である義勝は再起を図るべく

父本庄繁長ら上杉軍らとともに

1588年、庄内地方に侵攻を進めると、

十五里ヶ原合戦により最上連合軍を破り

以後庄内地方は上杉氏の領地と変わります。

この動乱の中、砂越氏の動向は不明ですが

訳あり砂越城を離れたと記録に残されており、

姻戚関係であった檜山安藤氏に身を寄せ、

江戸時代安東氏が福島県三春に転封された際、

それに従いともに下向したとされています。

 

神社の北側にあります資料館。

施錠されており見学は出来ませんでしたが、

館内には砂越城にまつわる資料が展示され

外からその様子を観覧しました。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211209181628j:plain

 

砂越城主尊親塔

(長応寺・砂越城二の丸跡)

 

砂越氏退去後、

上杉家家臣荒川玄蕃が城代となりますが、

1600年、関ヶ原の合戦後、

庄内地方では最上勢による

旧上杉勢討伐が行われ、

後に最上家家臣荒井右ェ門が

城代となりましたが

1616年に廃城となりました。

 

砂越城本丸から東にあります長応寺。

寺境内は砂越城二の丸跡地だとされ、

当時は砂越城西方の寺屋敷に

お寺が建立されていましたが、

1743年、屋敷替えが許され

砂越城二の丸跡地に移転した歴史があります。

お寺境内には砂越城主尊親塔が建立され

砂越氏との関連深いお寺となっています。

 

中世戦国時代の庄内地方の戦乱が学べる

貴重な歴史的な遺構が残されており、

とても見応えがありますので

酒田市に観光にお越しの際は

砂越城にぜひ訪れてみてください。

 

ランキングに参加しています

記事の内容がよろしければ

バナークリックをお願いします

にほんブログ村 旅行ブログ 東北旅行へ
にほんブログ

 

 

砂越城の場所はこちらです。

 

スポンサーリンク

 

スポンサーリンク