KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

山辺町 山野辺城(山辺城)の歴史と史跡をご紹介!🏯

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どーもKABUOです。

 

山形県山辺町にありますお城跡、

山野辺城の史跡を巡って来ましたので

お城の様子や歴史をご紹介します。

 

 

 

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山辺城(山野辺城)の歴史と史跡をご紹介!🏯

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山野辺城址

 

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山野辺城縄張り図

 

山形県東村山郡山辺町にあります山野辺城跡。

別名小鶴城とも呼ばれ平安時代

前九年の役(1051年~1062年)の頃

須賀川山辺氏によって領有築城されたのが

始まりだとされています。

室町時代になると山野辺氏の活躍が

伊達家や各地の記録にも確認され

軍機物語には山形城主最上家

配下の武将としても登場しました。

 

こちらの山野辺址碑は城がありました

山辺小学校に建てられた石碑で

歴史が説明された案内板が設置されており、

縄張り図は近世江戸時代に

城郭・城下町が整備された頃のもので

今回の史跡巡りもこちらの縄張り図を元に

散策を行いました。

 

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南大手門跡

 

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東大手門跡

 

山野辺城は白鷹丘陵先端の小丘陵上に立地、

標高110mの小丘陵上に築かれた

輪郭式の平山城になります。

南北朝時代から室町・安土桃山時代にかけ

村山地方の覇権を巡り幾度も戦乱が起こり、

山辺城を中心に北は西村山地方を領有する

寒河江大江氏とその配下長崎楯城主中山氏、

東は置賜地方を領有する伊達氏は

山辺町作谷沢を経由して村山地方

侵攻を進める事が想定されるので

戦略的に重要な場所だったと想像出来ます。

 

こちらはあくまでも推定ですが

南大手門と東大手門があったとされる場所で

東大手門があったとされる場所は

高台から坂道を下る低地となっており

二の丸の堀跡だと思われます。

 

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山辺小学校(二の丸跡)

 

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オリエンタルカーペット

(二の丸跡)

 

1514年、伊達稙宗の挙兵により

最上軍と共に城主山野辺刑部が

長谷堂城で籠城するも戦死します。

その後、山野辺城には

最上氏家臣日野光守が城主を務めましたが

1600年、東北の関が原慶長出羽合戦では

上杉氏重臣直江兼続の軍勢の猛攻により

落城したと記録に残されています。

その後、徳川方東軍の勝利に終わり

最上義光山形藩を立藩。

四男義忠を山辺城に入城させ

領土1万9300石与えました。

 

山野辺城二の丸跡は

現在北側には山辺小学校が建造されており

南側は住宅街が密集しておりニット製造で

有名なオリエンタルカーペットがあります。

 

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弾正渕(二重堀跡)

 

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水道橋(三重堀跡)

 

義忠は名を山野辺義忠と改め領主となると

城下町の整備を図り周辺の城下に通じる

街道の入り口には了広寺・竜徳寺・浄土寺

専念寺などの寺院を配置して戦闘場面での

防御陣地を想定して城下を構築、

治世の安定を図るなど善政を行いました。

また縄張り図を見ますとお城の西部には

三重堀・四重堀・出丸を設けており

関ヶ原合戦置賜地方米沢に移封された

反徳川方だった上杉氏がいる事から

西部に堀を設け防御機能の

強化を行ったと思われます

 

義忠は非常に優秀な人物であった為、

山形藩二代目藩主最上家親の死後、

家親の嫡男義俊が当主となるも

国政には関心が無く酒や女に溺れる

人物であったため実力や人望が無く、

家臣団の鮭延秀綱や楯岡光直ら多くの家臣から

義忠を当主へと押す声があがると

最上家臣団は義俊派と義忠派に分裂し

家中が分断されるという結果となります。

 

写真は山辺小学校北側から撮影した物で

小学校北側から斜面を下るように

低地となっており弾正渕と呼ばれる

二重堀の跡地だと思われる。

また北側には縄張り図に水道橋と書かれた

場所があったので散策してみると

水路が通っと橋がかかっており

こちらが水道橋があったであろう場所で

水路は三重堀だった場所だと思われます。

 

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東専念寺

 

1622年、内紛に歯止めがかからず

江戸幕府はこれを重く受け止め

最上家は領土を没収され改易を命じられると、

山野辺城は廃城、義忠は岡山藩へと流罪され

35歳から46歳までの

12年間幽閉生活を送りました。

 

しかしその後の1633年、

徳川家光の命により水戸藩徳川頼房

身柄が預けられ1万石の所領を得ると

水戸藩家老職へと異例の抜擢を受けます

その後、徳川光國の教育係を任せられる等、

山野辺一族は生涯に渡り水戸藩に置ける

重要な役職を務めあげる事となりました。

 

こちらの東専念寺は山野辺義忠の

自らの菩提を弔うために建立された寺院で

1664年、享年77歳で茨城の地で亡くなり

茨城県那珂市にあります常福寺

義忠はじめ一族の菩提所となりましたので

菩提寺として使用される事はありませんでした。

専念寺までは古い昔ながらの道沿いが続き

寺院南側を流れる水路は

縄張り図と照らし合わせると

三重堀の一部では無いかと思われます。

 

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山野辺陣屋跡

(山辺町中央公民館)

 

最上家改易後、鳥居・保科氏と

山形藩の領主は目まぐるしく変わる中、

1644年、松平直基が入部すると

山辺の幕府直轄の領地へと編入され

山野辺城跡には代官所が置かれる事となります。

1823年、白河藩に阿倍正権が入部すると

山辺・大蕨・鮨洗・金澤・柳澤・岡・成生

大谷・大暮山・用・深澤・伏熊・上下萩野戸の

飛び地を統治する事となり山辺城二の丸跡、

現在の山辺町中央公民館がある場所に

山辺陣屋を設置し幕末まで

この地の統治を行いました。

 

明治維新後、陣屋の大部分は解体されましたが

陣屋で使用された玄関は山辺小学校に移築され

そして現在山辺城本丸跡(旧山辺町役場)に

移築移転をされ山辺陣屋の

建造物唯一の遺構であり

山辺町指定有形文化財に登録されています。

 

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山辺町ふるさと資料館

 

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山野辺城城下町

 

今回古い縄張り図を元に

山野辺城の史跡調査を行いましたが

案内板が無いので殆ど確証が無く

憶測で史跡の判断を行ってしまいましたが

遺構は残されておりとても見応えあります。

山辺ふるさと資料館では町内の歴史の他に

山野辺城の歴史を詳しく説明した資料が残され

資料館から北へと歩くと義忠が整備を行った

城下町の面影が残こされており

古い歴史を感じる事が出来ました。

 

山形県村山地方に観光のお越しの際は

ぜひ山野辺城址の遺構巡りに

訪れてみてはいかがでしょうか

以上山野辺城の歴史と史跡のご紹介でした。

 

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こちらが史跡のアクセス場所です。

 

山辺町の歴史と史跡

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