KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

米沢市の歴史と史跡をご紹介!(近世江戸時代編)🏯

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山形県米沢市の歴史と史跡を

巡る旅に行ってきました。

 原始・古代から中世・近世・近現代と

4部に分けて米沢市の歴史をご紹介します。

 

前回中世戦国時代編の記事はこちらです  

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今回は江戸時代米沢藩を立藩した

上杉家を中心に名君上杉鷹山

ご紹介出来ればと思います。

 

 

 

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米沢市の歴史と史跡をご紹介!(近世江戸時代編)🏯

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直江石堤

 

近世の時代、

関ケ原の合戦により西軍方に与した

上杉家は米沢の地へ移封を言い渡され

米沢城へと居城を移し米沢藩を立藩、

以降幕末まで上杉家による統治が行われます。

米沢藩初代藩主上杉景勝の重臣

直江兼続は米沢の城下町を整備を行い

現在の米沢の基礎を築き上げました。

 

こちらの直江石堤は

兼続が米沢の町づくりのために

力を注いだ治水事業の一環として

石を積み上げ整備されたもので

兼続自ら赤崩山に登り松川(最上川)などの

地形を見渡して築堤したと伝えられている。

現存する石堤は1.2Kmにわたり

米沢市指定文化財に登録されています。

 

上杉景勝直江兼続の歴史と史跡を

ご紹介している記事はこちらです

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保呂羽堂(千眼寺)


関ヶ原の合戦前、

上杉家は会津120万石も誇り

石高に恵まれ経済的にも豊かでありましたが

米沢の移封により石高が30万石へと減少、

経済的に厳しいながら上杉景勝

家臣を露頭に迷わせまいと

一切リストラを行わず

希望する家臣全員を

連れてきたと言われています。

財政難を克服するため城下に入りきれない

下級武士を置賜地方各地に配置を行い

新田開発が行われました。

 

米沢市千眼寺にあります保呂羽堂は

上杉景勝重臣色部長真が

秋田・大森の検地を担当した折、

保呂羽山の羽宇志別神社を分霊、

領地の越後・平林城に移した。

その後、色部家は上杉に伴い米沢に移封、

ここ窪田に菩提寺千眼寺を移し

境内に保呂羽堂を遷座しました。

千眼寺には色部家の墓所の他に

寺院に安置されています

木造勢至菩薩坐像・木造阿弥陀如来立像は

平安時代末期に作成された貴重な仏像で

山形県指定文化財に登録されています。

 

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北山原殉教遺跡

 

1614年、江戸幕府による禁教令により

多くのキリシタンが取締りが行われます。

この置賜地方ではキリシタン大名であった

蒲生氏郷が入部していた事もあり

各地で布教が行われ信者も多数存在し、

上杉景勝は対応に追われましたが

家臣内にも信者もいる事から

比較的緩やかに取締りが行われます。

しかし1623年、景勝の死去に伴い

2代目藩主上杉定勝が家督を相続すると

幕府からのキリシタン取締りの圧力に屈し

領地での取締りの強化が行われました

 

こちらの北山原殉教遺跡は

米沢藩の刑場があった場所で

1629年に上杉家家臣甘糟右衛門一族など

57名のキリシタンが処刑されます

甘糟は上級武士で藩から

改宗を勧められるが応じず

殉教の道を選びました。

1929年、殉教300年を記念して

現在の公園が整備され公園中央には

キリスト・マリア・ヨハネの像が

建造されています。

 

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赤穂藩浅野家家老

大野九郎兵衛の供養碑

 

1645年、米沢藩2代目藩主

上杉定勝の死去に伴い、

家督は嫡子の綱勝が継ぎましたが

1664年、嫡子や養子も無いまま急死、

上杉家は無嗣断絶の危機に立たさまれしたが

綱勝正室の父に当たる会津藩保科正之が奔走、

綱勝の妹富子と高家吉良義央の長男綱憲が

末期養子として認められ

上杉家は存続をゆるされましたが

福島県信夫郡置賜郡の一部の領地が没収、

石高が30万石から15万石から半減し

財政難に拍車がかかる事となります。

 

こちらの大野九郎兵衛の供養碑は

1702年、忠臣蔵で知られる

赤穂浪士の討ち入りがあった際、

万が一吉良義央を討ちもらした場合、

綱憲を頼って米沢に逃げるであろうと考え、

米沢領の入り口板谷峠で吉良を打ち取るため

大野九郎兵衛は待ち構えました。

大石達が本懐を遂げたとの知らせを聞いて

翌年の春この場所で切腹

亡君浅野内匠頭の後を追ったと

言い伝えられています。

 

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羽黒神社

 

財政難となりました米沢藩ですが

上杉家という名家であるという意識から

なかなか華やかな生活を戒める事が出来ず

8代藩主上杉重定の時代には

幕府へ領地を返上しようと

真剣に考えるほどでありました。

 

1767年、9代藩主上杉治憲が家督を継ぐと

米沢藩の財政を立て直すべく

自ら大倹約を行い、

新田開発・治水工事・特産物の開発奨励と

様々な改革を行います。その後鷹山と改名、

子供や老人のいる家庭には藩から

米を配布する等福祉政策を実地し

江戸時代きっての名君としても知られており、

こちらの羽黒神社は1796年、

師である細井平州を鷹山自ら出迎えた場所で

旅の疲れをねぎらった事から

この師弟間の敬愛の姿は人々の範とたたえられ

平洲を出迎えました普門院及び羽黒神社

上杉治憲敬師郊迎跡として

国指定文化財に登録されています。

 

上杉鷹山の歴史と史跡を

ご紹介した記事はこちらです。 

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以上米沢市の歴史と史跡

近世江戸時代編でした

次回は近現代を中心にご紹介します。

 

明治近現代編の記事はこちらです。

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