KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

米沢市の歴史と史跡をご紹介!(幕末・明治近現代編)🏚

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山形県米沢市の歴史と史跡を

巡る旅に行ってきました。

 原始・古代から中世・近世・近現代と

4部に分けて米沢市の歴史をご紹介します。

 

前回近世江戸時代編の記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

 

今回は幕末・明治近現代を中心に

米沢が新政府軍と戦った戊辰戦争

織物産業が発達した明治時代を中心に

ご紹介します。

 

 

 

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米沢市の歴史と史跡をご紹介!(幕末・明治近現代編)🏚

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堀粂之助の墓

 

近現代の時代、

1868年、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに

新政府軍と幕府軍による戊辰戦争が始まると

米沢藩及び奥州各藩は幕府軍に味方すべく

奥州越列藩同盟を結び新政府軍に抵抗、

米沢藩は新潟長岡藩と共闘し

新政府軍を迎え撃ちましたが敗北、

その後降伏を余儀なくされ

幕末を向かえる事となりました。

 

こちらの竜泉寺にあります堀粂之助の墓は

戊辰の役の時、会津藩の堀粂之助と

吉村寅之進は藩命をうけて

米沢藩に援軍を求めるため

1868年、若松を出発し9月3日に

米沢に到着をした。

直ちに家老竹俣美作に面会して

会津の急をつげ援兵を求めたが米沢藩

既に事情が一変していたためこれを断った。

粂之助は宿舎に戻り君命を果たし得ないで

申し訳ないと辞世の句をのこし

9月5日従容として自刃して果てた

(竜泉寺案内板引用)

 

米沢藩と米沢城の歴史と史跡を

まとめた記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

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高国寺と近藤勇

 

米沢市鍛冶町にあります高国寺。

その中の近藤家の墓に

かつての新選組隊長近藤勇の首が

埋葬されているということで

話題になりました。

近藤家とは幕末のころ上州桐生から招かれて

米沢織物に貢献した近藤金太郎一族のこと。

勇と金太郎はいとこでたまたま上京した折、

板橋で処刑された勇の首を

ひそかに持ち去り火葬した後、

米沢の菩提寺である高国寺に埋葬したと

伝えられています。

(高国寺案内板引用)

 

お寺の境内には近藤勇

のぼり旗が上がっており

ちょっとした歴史のロマンが感じられます。

 

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米沢藩主上杉家廟所

 

戊辰戦争後の1873年、

明治政府の廃城令によって

城内のすべての建物が破却され

米沢城の歴史に幕を閉じます。

その後二の丸跡に

郡役所・町役場が設置されると

1874年、城跡は松が岬公園として

市民に一般開放されます。

 

米沢城にありました

上杉謙信の遺骸を祀った上杉謙信公祠堂は

その後上杉神社として改名、

松が岬公園の整備化にともない

謙信公の遺骸は上杉家廟所に移され

現在の本丸跡に創建されました

 

上杉家廟所の歴史と史跡を

ご紹介した記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

 

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米沢牛

 

明治時代、

1871年の廃藩置県により

米沢藩が廃藩となり米沢県が置かれ

当市域もこれに属したが

間もなく置賜県となります。

1876年、旧山形県・酒田県とともに

山形県に統一され編入されます。

 

新しい時代が幕開けとなった

米沢では洋学が奨励され

米沢藩師範学校でありました

興譲館に洋学舎が創設され

英語教師が招かれる事となりました。

英語教師として赴任したイギリス人のダラスは

米沢の地方の方言や風土を書した

書籍をいくつの発刊します。

現在の米沢の牛肉を他地方に紹介したのも

ダラスだとされダラスのコックを努めた

日本人万吉が牛鍋屋を開いたのが

米沢牛肉の創始だといいます。

 

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米沢駅

 

米沢は四方山に囲まれた盆地であるため

江戸期以来他地域および中央との交通に

恵まれないところでありました。

1876年、山形県三島通庸により

道路が整備され福島県を結ぶ万世大路が完成、

1881年には当時日本最長トンネル

栗子隧道が開通しました。

1889年、奥羽本線の開通により

米沢駅が開業されると首都東京との距離を縮め

物資輸送と文化の交流に

一大変化をもたらします。

その後1936年、新潟県と米沢を結ぶ

米坂線ができ市内西部の発達を促しました。

 

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米織会館


上杉景勝直江兼続の時代、

財政難を克服するため様々な政策を行い、

織物に使用される桑・青苧・紅花などの

栽培が盛んに行われ置賜地方の特産物として

高い評価を受けておりました

上杉鷹山の時代にはその地域性を活かし、

京都や新潟より織物職人を呼び寄せ

武士の婦女子の内職として織物を習得させ

米沢藩の財政難を立て直しました。

これが現在でも受け継がれる伝統織物

米沢織の歴史になります。

 

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人織工業発祥の地

 

1892年、米沢絹織物業組合が設立され

大正・昭和にかけての力織物の発明、

ドピー、ジャガードの発明などで

生産設備が飛躍的に発展を遂げました。

さらに大正時代に米沢高等工業学校

(現山形大学工学部)教授秦逸三が

日本で初めて人絹の生産に成功。

米沢市館山に帝国人絹株式会社

(現帝人株式会社)が創設され

全国に先駆けてレーヨンなどの

化学繊維の生産を開始しました。

 

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旧米沢高等工業学校

 

これは米沢織が合化繊織物へ

シフトしていくにあたって

土台形成の役割となり戦後の洋裁化に伴い、

1950年頃より合化絹糸をしようした

先染婦人服地が主流となると

米沢産地は呉服部門と服地部門の

両面産地として評価を得るようになりました。

(米織会館案内板引用)

 

米沢の地を歩きますと地場産業であります

米沢織の歴史を触れることができ、

こちらの旧米沢高等工業学校は

1910年、全国7番目に創立された

高等工業学校であります。

設立当初の学科は染織科・応用化学科の

2科が設置され染織産業の発展に寄与しました。

ルネッサンス様式を基調とする木造2階建で

北面の正面玄関から両翼94メートルに及び

国の重要文化財として保存されています。

 

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現在米沢市

置賜地方の中心都市として発展、

観光客誘致にも力を入れており

旧米沢城跡上杉神社など

多くの観光客が訪れております。

山形県にお越しの際は

ぜひ米沢市に訪れてみて下さい

以上米沢市の歴史と史跡のご紹介でした

 

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