KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

米沢市の歴史と史跡をご紹介!(原始・古代編)🏞

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どーもKABUOです。

 

山形県米沢市の歴史と史跡を

巡る旅に行ってきました。

 原始・古代から中世・近世・近現代と

4部に分けて米沢市の歴史をご紹介します。

今回は一ノ坂遺跡・戸塚山古墳・笹野観音堂

古志田東遺跡を中心に原始・古代の時代の

史跡をご紹介します。

 

 

 

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米沢市の歴史と史跡のご紹介!(原始・古代編)

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米沢市役所

 

県南東部米沢盆地の南端に位置する米沢市

その歴史ですが1889年、

市制の施行により米沢城下のうち123町と

花沢・福田・外ノ内・舘山・口田沢・吹屋敷

赤芝・塩野・片子・三沢・赤崩・笹野・遠山の

各村々と合併し米沢市が発足。

その後昭和の市町村の大合併により

上長井・万世・広幡・六郷・塩井

三沢・窪田・山上・上郷・南原の

村々と合併し現在に至ります。

 

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大町熊野堂

 

米沢という地名の由来ですが

ヨネ(米)のなるサワ(草の生える湿地)との説や

白い水が沸く米井(よねい)があることからきた

説などがあります。

大町熊野堂は米沢の地名の発祥地とされ

元は大善院というお寺があった場所で

米沢藩2代目藩主上杉定勝によって

米沢城の鬼門にあたるこの場所に

修験道の大善院をここに移し守らせました。

 

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一ノ坂遺跡

 

原始の時代

米沢は原始・古代の時代から

県内の中でも早くに開発が進んだ地域だとされ

数多くの縄文遺跡が発見されています

こちらの一ノ坂遺跡は

約6000年前の縄文時代前期の

長さ43.5mを誇る日本で最も長い

竪穴式住居跡になります。

石器や石屑が大量に発見された事から

石器を作る作業所であったと考えれており

国指定史跡に登録されています。

 

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戸塚山古墳群

 

古墳時代

5世紀頃から大和朝廷

影響下に入っていたと考えられており、

戸塚山古墳群・寶領塚古墳・牛森古墳

長手古墳群等数多くの古墳が発見され

市指定史跡に登録されています

特に標高357mの戸塚山から発見された

古代女性の骨は置賜卑弥呼と呼ばれ

注目を浴びました。

 

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笹野観音堂

 

古代の時代 

米沢市及び置賜郡の開発は古い歴史を持ち、

置賜郡の設置の年は不明でありますが

初めは陸奥国に属し712年、

出羽国の設置に伴いこれに編入されます。

当地方への中央文化の流入経路は

宮城県白石方面から二井宿峠越えで

高畠方面から入るものと、

福島県会津若松から喜多方を経て

大峠を超えるものとの2コースが

有力視されていたが、

会津文化との関連の深さから当市域に

直接影響を与えたのが大峠超えではないかと

考えられています。

 

会津米沢街道を通り米沢中心街に向かう

中央にありますこちらの笹野観音堂

坂上田村磨呂によって開基、

806年、徳一上人によって中興されたという

たいへん古い由緒を伝えています。

歴代領主の信仰も厚く、

地元では紫陽花寺としても親しまれており

置賜三十三観音霊場19番札所であります。

 

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美女塚

 

平安時代

838年、出羽の郡司であった小野良実の

消息が絶えたのを心配して

京からはるばる娘であり平安の女流歌人

六歌仙小野小町が訪ねてきた。

吾妻の山を超え米沢にたどりついたが

病に倒れ薬師の霊夢をたよりに出湯は発見、

この出湯が小野川温泉だと伝えられている。

その後体調を回復した小町は父を訪ねて

秋田へ旅立ったという説と

この地で亡くなったという説がある。

 

この美女塚はこの地で亡くなった小町を

村の人達が埋葬した場所であり

後に地蔵尊を安置したのだととも

伝えられている。

米沢地名選では小野小町説のほかに

小笠原長時の妾を埋めたとする説や

キリシタンの美女を埋めたする説、

さらには直江兼続公の遺器を

埋めたとする説などが伝えられていると

記されているがいずれも

伝説の域を出ないものである

(現地案内板引用)

 

小野川温泉の歴史と史跡を

ご紹介した記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

 

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 古志田東遺跡

 

こちらの古志田東遺跡は

平安時代9世紀の終わり頃の

遺跡だと推定されており、

地域を治めた豪族の屋敷跡であったと

考えられています。

 

発掘調査の際、表面の土を削ると

河川跡が見つかり船着場と考えられる

窪地と木橋の跡が確認され遺跡からは

約60天の文字などが書かれた木札が見つかり

舟着場で動員した人数を記したものや

米の品種を記したと思われるものがあり

当時の仕事や生活の状況を知る上で

貴重な資料となりました。

 

9世紀の終わり頃は、律令制度の衰退期であり

地方にこの時期の遺跡が少ない中、

豪族の屋敷跡がまとまって見つかったことから

その貴重性から国指定史跡に登録されました

 

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佐氏泉公園

 

平安時代末期の1180年、

長きに渡る平清盛平氏政権を打倒すべく

源頼朝義経兄弟が挙兵し争った

源平合戦が火蓋を切ります

義経の家臣であります佐藤継信・忠信兄弟は

米沢市花沢に館を構える

佐藤正信の三男・四男とされ

この地で生まれた伝説が残されており

こちらの佐氏泉公園に湧き続ける

佐藤清水を産湯とし使用したとされ

義経ゆかりの地として公園整備されています。

 

継信は屋島の戦い

義経の身代わりとなって戦死、

忠信は義経を逃すため一人で

源頼朝の軍勢に立ち向かい戦死しました。

公園近くにあります常信庵は

佐藤氏の開いた寺院で

正信・継信・忠信親子を祀る祠が建ち、

平泉へ落ち延びる義経一行を接待した話が

伝えられています。

 

以上

米沢市の歴史と史跡

原始・古代編のご紹介でした

次回は伊達氏が活躍した

中世の時代を中心にご紹介します。

 

中世戦国時代の記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

 

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