KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

大江町の歴史と史跡をご紹介!(原始古代〜南北朝動乱の時代編)⚔️

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どーもKABUOです

 

山形県西村山郡大江町

歴史と史跡を巡る旅に行ってきました。

同町を原始古代から近現代まで順を追って

1部・2部と分けてご紹介します。

 

今回は原始・古代の時代から

南北朝動乱の時代までの様子を

ご紹介出来ればと思います。

 

 

 

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大江町の歴史と史跡をご紹介!(原始古代〜南北朝動乱の時代編)⚔️

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大江町役場

 

大江町の歴史ですが

1959年、左沢町と漆川村の

合併によって発足。

町名の由来ですが中世の時代、

西村山郡を統治しました

寒河江大江氏が同町の由来となりました。

 

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大江町立左沢小学校 

 

原始の時代、

最上川の支流、月布川沿いを中心に

望山遺跡・庚申山遺跡等、

先土器時代や縄文時代

遺物が出土発見されています。

 

古代の時代、

712年、出羽国が設置され

886年には最上郡と村山郡の2郡に区分され

平安時代の辞書、和名抄に見える

最上郡八木郷に属していたと

有力されています。

 

天武天皇年間(?〜686年)

朝日岳が開山されて山岳信仰

一大霊場として栄えたと伝えられ、

登山口の1つ古寺には千源寺がありましたが

鎌倉期北条時頼によって閉鎖されたといわれ

千源寺跡と言われる場所が残されています。

 

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 護真寺の阿弥陀堂(護真寺館跡)

 

中世の鎌倉時代

1189年、奥州藤原氏の討伐の功績により

大江広元寒河江荘地頭に命じられると

多田仁綱を目代として派遣し経営しましたが

同荘は間もなく広元から長子の親広に譲られた

1221年、承久の乱後鳥羽上皇について

敗れた親広は寒河江荘へと逃れました。

仁綱は親広を迎え入れ

要害の地富沢にかくまい、

ついで吉川に移し保護を行いました。

 

大江町伏熊にあります護信寺館跡は

親広と共に逃れた腹心中山義忠が

追手から親広を守るために

居住した館跡があった場所で、

現在阿弥陀堂に祀られている

平安末期の作られた伏熊の阿弥陀仏

大江町文化財に指定されています

 

その後、中山氏は7代継信の時代に

現在の中山町長崎に居住を移し長崎楯を築城、

200年以上中山の地を統治しました。

 

中山氏の歴史は中山町の歴史と史跡で

ご紹介してますのでこちらもぜひご覧ください

www.yamagatakabuo.online

 

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左沢楯山城

 

大江親広の曾孫元顕が鎌倉後期に

寒河江荘に入部を行うと

一族も続々と入部を行い

寒河江城の修築や一族重臣の分封、

慈恩寺の保護など寒河江荘の

経営にあたります。

 

南北朝時代

東北地方にも南北朝動乱の争いが激化する中、

元顕の孫、大江氏7代時茂は南朝方に与し

一族を寒河江・白岩、溝延、柴橋と

各地に配置し争乱に備えたとされています。

 

大江町左沢は村山地方置賜地方を結ぶ

軍事上の要地であった為、

時茂の次男、大江元時をこの地に配置し

楯山に左沢城を築城しました。

現在左沢楯山城は公園整備化され

国指定史跡として保存されています 

 

左沢楯山城の歴史と史跡を

詳しく記載した記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

 

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漆川古戦場跡

 

1356年、北朝方の斯波兼頼が山形に入部。

南朝方の大江氏との間に戦いが起こり

1368年、大江時茂の嫡男、

溝延城主大江茂信を総大将として

漆川の地で一大攻防戦が行われましたが

斯波氏の巧みな奇襲戦術によって

大江氏は大敗北を喫します。

 

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漆川戦殉難者供養碑(長泉寺)

 

漆川の戦いで敗北を喫した大江茂信達は

萩袋楯(現在の長泉寺)に逃れましたが

斯波氏の大軍に包囲され

茂信、左沢城主左沢元時含め

一族61人この地で自害を遂げ、

村山地方における南北朝の争いに

終止符を打つ事となりました。

 

漆川古戦場の碑は

大江町立本郷東小学校近くに建てられており

漆川という名前は同町を流れる

月布川の古名だとされ

大江町萩野にあります長泉寺には

この戦いで敗れた大江一族の

供養塔が建立されております。

 

その後、1373年

寒河江城主大江時茂はこの世を去る際、

これ以上抗争を続ける事がないよう

遺言を残し、残された一族は

北朝方の幕府軍と斯波氏との降和を行い

所領は安堵される事となりました。

 

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 大日寺大井沢湯殿山神社

 (西川町)

 

南北朝動乱の時代が終わり

この地にもつかの間の

平和が訪れる事となります。

 

大日寺の開基は天長年間(824〜34年)

弘法大師空海によって建立されたとされ

その後荒廃し、無住寺となっておりましたが

中興の祖、道智上人によって1394年頃

大日寺を再建すると共に関東、福島、置賜方面の

湯殿山参拝者の便を計るために

白鷹の黒鴨から大井沢の大日寺までの参道と

大日寺から大網の大日坊までの参道を改修し

大日寺繁栄の基礎を作りました。

 

大江町堂屋敷地区には

道智上人の屋敷跡が残されており

堂屋敷の地名の由来ともなります。

 

以上、

大江町の原始古代~南北朝時代までの

歴史と史跡のご紹介でした。

次回は戦国時代から近世江戸時代、

そして近現代までをご紹介します。

 

次回の記事はこちらの

リンクをクリックしてください

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