KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

水野元宣と山形藩の戊辰戦争の歴史

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どーもKABUOです

 

2019年6月

山形城を中心に

最上義光ゆかりのある

史跡巡りを行いました。

 

今回は最上義光の時代から

ぐっと時計の針を進めて

山形藩の戊辰戦争について

ご紹介出来ればと思います。

 

水野元宣と山形藩の戊辰戦争の歴史

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山形藩幕末までのハイライト

 

まずは山形藩の幕末に至るまでの

状況から整理していきたいと思います。

山形藩初代藩主を勤めた

最上義光によって

最盛期は秋田南部と山形県北部を入れ

石高57万石( 実数100万石)を誇る

大名として君臨しておりましたが、

 

その後最上義光の死後

最上家の中で内紛が蔓延り

家中が収まらなくなってしまい

改善の余地が無いと江戸幕府に判断され

1622年改易が命じられました。

 

最上家改易後は

鳥居家、保科家等、多くの大名が

入れ替わり立ち代わり転封され

その色合いも幕藩体制の確立に従い

不祥事を起こした藩主による

左遷的な意味合い持つ事となります

 

多くの大名が流れ着くなか

どれも長続きはせず国力は削ぎ落とされ

幕末の頃には5万石程度まで下がり

山形城の改修するお金に困るほど

没落していきました。

 

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豊烈神社

 

そして山形藩最後の

藩主が水野家でした

水野家は天保の改革に失敗した老中

水野忠邦の長男である水野忠精が

家督を相続した後に父の失脚に伴い

山形藩に左遷させられる事となります

 

1866年

まだ10歳にも関わらず

長男である水野忠弘に家督を譲り

忠精は隠居しますがそんなか幕末の

動乱へと突入してくのでありました

 

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豊烈神社社殿

 

1868年1月

鳥羽伏見の戦いを皮切りに

戊辰戦争が勃発。

同年4月水野忠精、忠弘は

京都の朝廷を訪れる最中

東北に戦火が襲い、藩主不在の中、

動乱を乗り越えなければならない

状態に山形藩は陥ったのでした。

 

こちらの豊烈神社は水野家藩主、

水野忠邦を祀った神社で

山形藩に転封となった際に

山形城二の丸に遷座し

後に紹介する、水野元宣と

戊辰戦争で亡くなった

山形藩士の霊を合祀した

神社になります。

 

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水野三郎右衛門元宣の銅像

 

藩主不在の渦中の中

指揮を取り続けた男がいました

 水野三郎右衛門元宣です。

 

水野元宣は22歳の若さで家老職に付き

文武両道に優れ家中藩士の信頼を

集めていた人物でありました。

 

当初、戦争に慎重な立場であり

山形に戦火が及ばないように

色々と手を尽くしましたが、

強大な新政府軍による

庄内藩の討伐が決定すると

渋々それに応じて交戦します

 

それは苦渋の決断であった事でしょう 

 

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水野三郎右衛門元宣宅跡

 

しかしその後

世良修造の暗殺を継起に

奥羽越列藩同盟が模索されると

仙台藩や庄内藩そして米沢藩の

大藩に押される形で同盟に

参加せずにいけない事態に

追い込まれてしまい、新政府軍への

交戦へと踏み切るのでした

 

藩主忠弘は

新政府軍に対して山形藩が

味方になるように説得すると

新政府軍に嘆願したそうですが

その願いも叶わなかったそうです。

 

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長源寺

 

しかし秋田藩や新庄藩の裏切りによって

同盟軍の足並みが揃わなくなると

各藩降伏が相次ぎます

 

そして 1868年9月

山形藩は降伏するのですが

新政府軍により反逆の罪に問われた元宣は

「山形藩の責任はすべて自分一人にあり

他の者には寛容な御処置を」と嘆願書を

提出し他に犠牲者が出さないように

努力しました

 

水野三郎右衛門元宣終焉の地

 

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そして責任を一心に背負い

この長源寺の境内で斬首されました

 

享年 29歳

 

その後、戊辰戦争の中

山形市内に大火が及ばなかったのは

元宣のお陰だとされ

豊烈神社に合祀された他

神社の境内に銅像が

山形市民の手によって作成されました

 

戊辰戦争は会津や庄内藩が

クローズアップされがちですが

混乱の最中右往左往する

姿に色々と考えさせられる事だと

思いますので山形城の観光のついででも

構いませんのでぜひ足をお運びください

 

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