KABUOの東北歴史巡り

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尾花沢市 延沢城と戦国武将野辺沢氏の歴史と史跡をご紹介!🏯

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どーもKABUOです

 

山形県尾花沢市の歴史と史跡を巡る

旅に行ってきました

今回は尾花沢市延沢地区にあります

延沢城と戦国武将野辺沢氏をご紹介します。

 

 

 

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延沢城と戦国武将野辺沢氏の歴史と史跡をご紹介!🏯

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延沢城跡(常盤小学校)

 

別名霧山城と呼ばれる延沢城。

1547年、野辺沢満重によって

標高297m程の古城山に

築城された連郭式の山城になります。

 

延沢城があります延沢地区は

737年、出羽国雄勝蝦夷を討った

大野東人によって多賀城から出羽国を通る

軍道として軽井沢越最上街道が開削されると

北は尾花沢、南は村山市楯岡に向かうなど

古くから交通の要所として栄えました。

 

常盤小学校の敷地内は

平時の際に使用された屋敷跡があったとされ

小学校近くの常盤地区公民館に

車を停められる駐車場が完備されていますので

そちらからお城の方に向かうことができます。

 

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本丸までの山道

 

野辺沢氏の出自は詳細は不明な点が多いですが

本性が日野という名前で鎌倉時代

東根市を中心に小田島荘を統治しておりました

小田島長義とつながるとする説が

考えられておりますが定かでは無く、

野辺沢銀山の銀の採掘を背景に

村山地方でも有力な国人衆と目されるほど

強大な財力と武力を保持しておりました。

 

お城の入り口までは

常盤小学校裏手から進む事ができ

本丸までは道がよく整理されておりますが

急勾配が続き歩くと汗をかきますので

飲み物やしっかりとした靴を

準備する事をおすすめします。

 

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古殿実相院

 

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 延沢地区古殿

 

野辺沢満重の子、満延の時代、

1577年、村山統一を目指す最上義光

天童城主天童頼貞との間に亀裂が生じ

戦いの火蓋が切って落とされると

天童氏は北村山地方を中心とした

国人衆と供に同盟を結び天童八楯を結成。

野辺沢満延は天童八楯の中心人物の一人として

義光軍勢に対し徹底交戦を行い

最上勢を大いに苦しめる事となりました

 

延沢地区に古殿という地名があるのですが

父満重が満延に家督を明け渡した後、

この地に隠居した事が地名の由来になります。

 

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延沢八幡神社

 

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円照寺 六沢観音

 

天童頼貞との戦いの後、

両者は矛を収め一旦和睦を行いましたが、

虎視眈々と最上義光は策略を巡らせます。

義光は強大な力を持つ野辺沢満延に

長女松尾姫と満延の嫡子又五郎

縁談を申し込み懐柔を試みると

満延は自分を高く評価してくれ事に

非常に喜び縁談を了承、

同盟軍から離脱する事となりました。

 

満延の離脱は同盟軍に大きな衝撃を与え、

次々と同盟軍が最上傘下へと下り

天童八楯が瓦解する事となります。

天童頼貞の死後、嫡子頼澄と天童家臣団は

最上勢に対し最後まで抵抗を試みるも

1584年、天童城は落城、

満延は最上家の重臣へと取り立てられ

延沢2万石を与えられました。

 

延沢八幡神社は野辺沢満延によって

京都から槍を持ち込ませ建立した神社で

地域の鎮守として厚く信仰されております。

円照寺は野辺沢氏によって中興開基され

お寺の境内にあります六沢観音は

最上三十三観音23番札所でもあり

嫁いだ松尾姫の墓所が残されております。

 

天童氏との戦いを詳しく記載した

記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

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龍護寺山門

 

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延沢観音

 

満延には嘘か本当かわからない

面白い逸話が残されており、

山形両所宮の鐘を1人で外し

尾花沢市鶴子まで持ち運んだ話や、

剛力ぶりを試そうとした義光が

逆に追い詰められ太い桜の木に

しがみついて逃れようとしたところ、

義光ごとそのまま木を根こそぎ

引っこ抜いたとの伝説が残されているなど

剛力の武将として名をあげ最上四天王と

呼ばれるほどの豪傑な武将でした。

 

しかし1591年、

野辺沢満延は病に倒れ死去、

家督を嫡子光昌(又五郎)が引き継ぎ

最上義光と共に数々の戦に従軍、

東北の関ヶ原、慶長出羽合戦の際

延沢城は上杉軍の猛攻により落城しましたが

延沢光昌は長谷堂の戦いや

後詰めの庄内征伐にに参加し

武功を立て活躍する事ができました。

 

延沢地区にあります龍護寺は

野辺沢氏の菩提寺として厚く信仰され

山門は延沢城の三の丸大手門から

移築したと伝えられております。

また境内にあります延沢観音は

最上三十三観音22番札所で

多くの参拝者が訪れております

 

長谷堂の戦いを詳しく記載した

記事はこちらです

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 上柳渡戸地区

 

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下柳渡戸地区観音堂

 

関ヶ原の合戦後、

山形藩を立藩した最上家でしたが

最上義光死後、家中は内紛により大変乱れ

1622年、江戸幕府の命により

最上家は改易、野辺沢氏は

肥後国熊本藩にお預けの身となります。

 

その後、

山形藩に鳥居氏・保科氏が入部すると

当時最盛期を迎えた銀山の

採掘事業を統治する為、

延沢城に家臣を入城させましたが

1644年頃から銀の採掘が減少を辿り

1667年、幕府より廃却を命じられ

延沢城は廃城となりました。

 

尾花沢市上柳渡戸地区と下柳渡戸地区は

延沢銀山の開発に伴い

延沢家没落後この地に残った家臣団が

帰農し集落を形成した歴史があります。

 

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霧山城の碑

 

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延沢城跡のスギ

 

現在お城跡には霧山城の碑が建立されており、

本丸跡にあります大杉は延沢城跡のスギとして

県指定天然記念物に指定され

延沢銀山遺跡跡として国指定史跡に

登録されてされております。

山形県尾花沢市にお越しの際は

銀山温泉と一緒に観光に訪れてみてください。

 

以上、

延沢城と戦国武将野辺沢氏の

歴史と史跡をご紹介でした。

 

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延沢城のアクセスはこちらです。

 

村山地方のお城跡

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