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どーもKABUOです
前回の塩川宿から
会津若松の城下町入り口
七日町駅までの記録を記載します
会津若松市までの道中は
戦国時代に会津を治めていた
葦名氏の古城がいくつもあります。
色々と寄り道をした内容をご紹介します
浜崎城跡
喜多方市塩川町から
橋を渡って直ぐ左側に浜崎城跡と
書かれた柱がたっています
近くに説明書きの看板はないので
ネットで検索したところ
南北朝の動乱の最中に
この城が機能しており
葦名氏の支城であった事は
間違いないのですが
家臣の反乱でこの浜崎城に立て籠り
葦名氏により鎮圧されたと
記載されています
また阿賀川の河川の氾濫が相次ぐなか
河川から少し高めの現在位置に
移動となったそうです
浜崎城から県道326号線を通ると
水子地蔵の遍照寺さんの前を通ります。
北田城址
街道から少し寄り道しますと
田んぼの真ん中に北田城址があります。
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鎌倉時代初期に佐原盛連の次男・広盛が北田氏を名乗り、城を築いたのが始まりと言われている。なお、広盛の兄・経連は猪苗代氏の祖、弟・光盛は蘆名氏の祖である。
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応永9年(1402年)、北田氏は同じ蘆名氏一族で、新宮庄(現在の喜多方市一帯)地頭の新宮城主・新宮盛俊と結んで黒川城の蘆名氏に反旗を翻し、そのため応永16年(1416年)6月、北田城は蘆名氏によって攻め落とされ、城主・大庭政泰(北田上総介)父子らは討死し、北田氏は滅亡した
葦名氏は黒川城(現会津若松城)を基盤に
会津一帯に勢力を拡大する中
浜崎城でもそうですが家臣や一族の反乱が
立て続けに起きたことが
読み取る事が出来ます。
県道326号線を会津若松市に向かう途中
あった場所だと言われており
Googleマップで確認すると館とついた
地名が残ってる事から確認する事が出来ます
1584年、笈川城主である栗村盛胤は
黒川城主葦名氏に対して
謀反を起こしますが鎮圧され廃城
1589年に伊達政宗の侵攻により
戦国大名葦名氏は没落してしまいます。
葦名氏没落の原因は
家臣をまとめる事が出来ず
内部から崩壊した事が原因だったと
考えられるのではないでしょうか。
安時代初期の弘仁年間(810年 - 824年)に法相宗の学僧・徳一(760?年 - 835?年)によって開かれたといわれている。徳一は中央(畿内)の出身で、藤原仲麻呂の子とも言われるが確証はない。20歳代で関東に下り、会津地方を拠点に宗教活動を行った。日本天台宗の宗祖である最澄と三一権実(さんいちごんじつ)論争と呼ばれる、天台宗と奈良の旧仏教の優劣に関わる論争を行ったことでも知られる。徳一の開創が確実視される寺院としては慧日寺(恵日寺、福島県磐梯町)と筑波山の中禅寺(茨城県つくば市)があり、その他にも多くの寺院を建立したと伝えられる。勝常寺については、徳一の創建を伝える文献等の直接的史料はないが、当寺には本尊薬師三尊像をはじめ、9世紀にさかのぼる仏像が多く残り、これらは徳一が関係した造仏であると考えられている。
県道326号線をまっすぐ進めば
会津若松市に到着。
市街地を走っていますと
会津名産の馬刺しを扱った
精肉店を目にすることが出来ます
県道326号線から
今度は国道256号線から
進み会津若松城や城下町へ
北塩原の桧原地区から始まった
米沢会津街道の旅は
一旦ここで終わりになります。
旅の期間が二日と時間が
なかったことがあげられます
また時間を作りましてお城と一緒に
レポートする予定ではあります。
今度訪れる際は会津の歴史を一
から勉強を行い戦国大名葦名氏、
江戸時代、そして戊辰戦争までを
ポイントを押さえてご紹介出来ればと
思っております
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