KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

秋田市 久保田城(千秋公園)の歴史と史跡をご紹介!🏯

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どーもKABUOです

 

秋田県秋田市の歴史と史跡を巡る

旅に行ってきました。

今回は江戸時代に築城され

秋田藩の政務の中心地でありました

久保田城の歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

 

 

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久保田城(千秋公園)の歴史と史跡をご紹介!🏯

 

 

久保田城大手門の堀

 

秋田駅から程近い場所にあります

久保田城(千秋公園)。

別名窪田城・鎗留ノ城

矢留ノ城とも呼ばれ

春には桜が咲き誇り

日本百名城にも選出された

秋田市指定名勝になります。

 

その歴史ですが

久保田城が築城される以前、

戦国時代安東氏(秋田氏)の配下である

三浦氏の城館が所在し、

丘の上に神明宮を祀っていたことから

この地は神宮山と呼ばれており、

落ちくぼんだ沼地が多い事から

久保田という地名の由来となりました、

 

 

 

三の丸跡

(秋田市文化創造館

あきた芸術劇場ミルハス)

 

関ヶ原の合戦後、

秋田氏は国替えを命じられ、

入れ替わる形で茨城常陸国より

佐竹義宣が入部し秋田藩を立藩。

 

当初秋田氏の居城であった

湊城に入城しましたが手狭なため

土崎港の海運に雄物川の水運などの

交易上の利点を考え、

楢山・泉嶽・富士山・手形山・八橋山と

自然の防護壁に囲まれた事から

1602年に築城が開始され

完成したのは1631年頃といわれ

以後幕末まで佐竹氏の居城となりました。

 

 

 

唐金橋跡

 

関ヶ原の合戦で佐竹氏は

西軍石田三成と密約を交わしたとされ

合戦には参加せず日和見を徹しましたが、

戦いは東軍徳川家康の大勝利に終わり

戦力を温存していた

佐竹氏に対する牽制を含め

旧領土54万石から20万石程の

秋田領への国替えが行われました。

 

この事から

徳川幕府に対する配慮と財政難のため

天守閣や石垣の造営を行わず

堀と土塁を巡らした

簡素な築城が行われたと

考えられています。

 

 

二の丸跡

 

 

佐竹史料館

 

佐竹氏は大舘城・横手城と

一族家臣を各領地に派遣し統治を行うと、

領地の開墾・新田開発

鉱山の発掘・秋田杉の植林

土崎湊や雄物川による舟運等など

領内の経済の開発に努め

特に教育に力を注ぎ明徳館の開校や

安藤昌益・平田篤胤佐藤信淵

江戸時代を代表する学者を輩出を行い

現在の秋田県の原型を築きあげました。

 

 

本丸表門跡(復元)

 

 

長坂門跡

 

1868年の戊辰戦争では

当初奥羽越列藩同盟に参加を行い

近隣東北諸藩と共に

江戸幕府方に組み入れましたが、

藩内では尊皇攘夷が多く

新政府方に組み入れする物が多く、

藩主佐竹義堯の説得を行い

仙台藩士の殺害に及んだ事から

秋田藩は新政府軍に加わる事となります。

 

 

本丸跡

 

 

佐竹義堯

 

東北諸藩はこの事に激昂、

秋田藩及び同盟を結ぶ

本荘藩・亀田藩・矢島藩の

領地へと侵攻を進めると、

秋田県各地で戦闘が行われ

多数の死者と多くの家屋が焼失。

 

秋田藩は防戦を強いられましたが

新政府軍の加勢を得たことによって

久保田城は戦禍に巻き込まれる事なく

戊辰戦争終結する事となりました。

 

 

 

御隅櫓

 

久保田城はその後

本丸跡地に秋田県庁が開庁されましたが

1880年の大火によって

城内の建物多くが焼失しましたが、

1896年、造園家長岡安平氏によって

公園として整備される事なり

秋田の「秋」に長久の意の「千」を冠し、

長い繁栄を祈る意味を込めて

千秋公園」と名付けられ

毎年多くの観光客が訪れる

人気観光スポットとなっています

 

佐竹史料館や御隅櫓では

久保田城の歴史や歴代佐竹当主の

歴史を学べとても楽しめますので、

秋田県に観光のお越しの際は

ぜひ久保田城(千秋公園)に

訪れてみてください

 

 

こちらがお城の場所です

 

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