KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

由利本荘市 由利十二頭 矢島氏の歴史と史跡をご紹介!🏯

スポンサーリンク

どーもKABUOです。

 

秋田県由利本荘市にかほ市

由利郡を中心に歴史と史跡を巡る

旅に行って来ました。

今回は戦国時代由利本荘市矢島を中心に

この地の統治を行った矢島氏の

歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

由利十二頭 矢島氏の歴史と史跡をご紹介!🏯

 

根城館(八幡神社)

 

鳥海山の麓に位置し子吉川が町内を流れる

由利本荘市矢島地区。

中世の時代この地に入部を行った

矢島氏によって統治が行われました。

 

矢島氏は信濃国(現在の長野県)より

1467年、甲斐源氏小笠原氏流の

大井朝光の末裔と伝えられる

大井友拳の由利郡の地頭代に入部した際

その一族が矢島に入り

矢島氏と称した事から始まります。

 

大井氏は各地に一族を入部させる中

戦国時代になると各独自勢力を持ち

由利十二頭と呼ばれる国人衆として

各領地の統治を行われるようになりました。

 

こちらの根城館跡は、

矢島氏が最初に居住を行った居館跡地で

現在矢島氏の創建に携わる

八幡神社が建立されており

秋田県指定文化財に登録されています。

 

 

新荘館

 

1560年、矢島氏は領内を接する

由利本荘市前郷の滝沢氏との

領地を巡る小競り合いが始まると

独力での戦いを不利だと悟った滝沢氏は

由利十二頭の一人で仁賀保に本拠地を置く

仁賀保氏に援軍の支援を求めた事から

以後30年に渡り矢島氏・仁賀保氏による

由利地方を巡る抗争へと発展していきます。

 

この時の戦いが元で

矢島氏当主義満が死去すると

家督を矢島満安が引き継ぐ事となります。

満安は身長約2m程もある

とても大柄な男だったと記録に残され、

1滝沢氏の居館を攻め没落させたり

また仁賀保氏当主を4代に渡り討ち取る等

豪勇に優れた武将でありました。

 

こちらの新荘館は

新たに築城された居館跡で

仁賀保氏との抗争の激化するなか

子吉川を天然の堀に見立て

より強固に館を守れるよう

根城館から居館を移したと

考えられています。

 

 

根井館跡

 

戦国時代の由利地方ですが周辺には

山本郡・比内群を掌握する安東氏や

雄勝郡・平賀郡で勢力を誇る小野寺氏、

庄内地方を統一した大宝寺氏と

強力な戦国大名によって周囲を囲まれ

由利十二頭の国人衆は情勢を見極め、

時には敵なり時には味方になる等

与する戦国大名を見定めていました

 

また由利十二頭同士でも時には同盟を結び、

小野寺氏に対抗を行った大沢山の戦いや

安東氏内で抗争が行われた第二次湊合戦では

檜山安東氏に与し湊安東氏を攻め滅ぼすなど

由利十二頭同士一致団結が行われます。

 

こちらの根井館跡は

矢島氏の重臣根井氏の居館跡地で

旧矢島町指定文化財に登録されています。

 

 

八森城

 

矢島氏は小野寺氏と婚戚関係があった事から

小野寺氏と関係を深めていましたが、

その他の由利十二頭の国人衆は

大宝寺氏を滅ぼし勢力を広げた

山形城主最上義光に与するようになると

矢島氏は由利十二頭から孤立、

また最上義光の諜略により

満安の弟与兵衛を謀叛を起こし

家中が多いに乱れ矢島氏は弱体化しました。

 

こちらの八森城跡は

矢島氏の居城または支城の1つだとされ、

江戸時代には矢島藩生駒氏の

居城して利用された歴史があります

 

八森城および生駒氏の

歴史と史跡を紹介した記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

 

 

荒倉館

 

この時を見計らい由利十二頭ら国人衆達は

矢島氏領地に侵攻を進め、

満安は対抗するも力及ばず敗戦を喫し

妻の実家であり婚戚関係のある

羽後町西馬音内城小野寺茂道を頼り

矢島の地を離れ敗走。

 

茂道は満安を匿いましたが、

しかし最上義光の諜略に抜け目がなく

小野寺氏にも離反させる諜略を行い、

この行為が宗家小野寺義道に

茂道の謀反の疑惑を差し向けられ

西馬音内城に兵を差し向けられましたが、

満安は全責任を一心に引き受け

身の潔白を証明すべく

切腹を果たす事となりました。

 

こちらの荒倉館跡は

由利十二頭に攻め込まれたさい

満安が最後に立て籠り戦った館跡です

 

 

金子安部太郎墓碑

 

その後の矢島氏ですが1600年、

関ヶ原の合戦が行われると

金子安部太郎ら満安の遺臣40名は

西軍方の上杉氏と手を結び

満安の遺児鶴姫を擁立し蜂起を決断。

東軍方の仁賀保氏家臣が守る八森城を攻撃。

また笹子赤館に城を築き籠城を行うが、

関ヶ原の戦いは徳川方東軍の勝利に終わり

まもなく仁賀保氏5000の兵に攻め込まれ

多くの家臣は討死する事となりました。

 

由利本荘市鳥海町上笹子には

この戦いによって討死した

金子安部太郎の墓碑の史跡が残されています。

 

 

鶴姫の墓碑

 

関ヶ原の合戦後、由利地方は

戦後恩賞により最上義光に与えられ

山形藩が立藩すると

本庄城主楯岡満茂の弟、

長門守満広は矢島の地が与えられ際

生き延びた鶴姫を娶り領内の安定を図り

矢島の統治を行いましたが

1622年最上家の改易によって

終わりを告げました。

 

こちらの鶴姫の墓碑は

由利本荘市鳥海町下川内矢ノ本の

元弘寺跡地にあります史跡で

鶴姫は晩年元弘寺に庵を結び

父満安の菩提を弔ったと伝えられています。

 

 

高建寺

 

由利本荘市矢島町立石上野にあります

こちらの高建寺は矢島氏の菩提寺で、

境内に矢島満安の墓碑が建立されている他、

庭園にあります高建寺の臥竜松は

旧矢島町天然記念物に指定されています。

 

由利十二頭 矢島氏は

中世戦国時代の由利地方の歴史では

かなり重要人物ですのでその歴史は面白く

また史跡もしっかりと残されており

とても見ごたえがありました。

由利十二頭の歴史に興味ある方は

ぜひ由利本庄市矢島町にあります

矢島氏の歴史や史跡を巡ってみてください

 

 

こちらが史跡の場所です。

 

由利十二頭の歴史と史跡

おすすめ関連記事

www.yamagatakabuo.online

www.yamagatakabuo.online

www.yamagatakabuo.online

www.yamagatakabuo.online

 

スポンサーリンク

 

スポンサーリンク