KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

鶴岡市 鶴ヶ岡城(荘内神社)の歴史と史跡をご紹介!🏯

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どーもKABUOです。

 

山形県庄内地方の歴史と史跡を

巡る旅に行ってきました。

今回は鶴岡市にありますお城跡、

鶴ヶ岡城を巡って来ましたので

同城の歴史や史跡をご紹介します

 

 

 

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鶴ヶ岡城の歴史や史跡をご紹介!🏯

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鶴ヶ岡城址

 

鶴岡市馬場町にあります鶴ヶ岡城。

別名大宝寺城とも呼ばれ

内川と青竜寺川にはさまれた平地に立地。

標高15mの平地に築かれた輪郭式の平城です。

その歴史ははじめ大宝寺城と称され

1185年、奥州合戦の後、

地頭として庄内に武藤氏が入部、

当時大泉荘と呼ばれた田川郡の中心地

大宝寺に武藤氏の始祖武藤景頼が

築城したのが始まりだと伝えられており、

大宝寺氏・大泉氏と名乗り

庄内地方の統治を行いました。

 

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城郭縄張り図

 

南北朝時代になりますと

武藤氏は北朝廷方に与し

南朝方勢力や羽黒山勢力を制圧、

大宝寺城を中心に東北でも有数の

城下町を築きあげる等

庄内地方での基盤を築き上げましたが、

1532年、飽海郡を領有する

砂越城主砂越氏維の攻撃によって

大宝寺城をとともに城下町が焼失、

より堅固な尾浦城へと居城を移し

大宝寺城は支城の一つとして

使用されました。

 

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二の丸大手門跡

(荘内神社大鳥居)

 

17代当主武藤義氏は近隣の国人衆の

制圧を行い庄名地方を統一

最盛期には村山・最上・秋田県由利郡まで

進軍を進め勢力を広げましたが、

義氏の強引な政治政策により領内が疲弊、

1583年、そんな義氏を見限り

家臣前森蔵人は尾浦城に奇襲をかけ

義氏を自害へと追い込みました。

 

その裏には山形城主最上義光と内通を図り

裏で手を引いていたとされる通説もありますが

記録には残されておらず

あくまでも推測の域にとどめています。

 

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本丸堀跡

 

その後義氏の弟義興が家督を引き継ぎ

上杉家と連携を組み等尽力しましたが

1587年、最上義光の軍勢との

戦いに敗れ義興は自害、

最上領土へと編入される事となりますが

翌1588年、義興の養子であった

武藤義勝は実父本庄繁長とともに

庄内地方に攻め寄せ最上軍は大敗すると

大宝寺城がその際焼き払われました。

 

以後上杉氏が庄内を領有したが

本拠は尾浦城に置かれ1591年、

直江兼続によって修覆が行われたが、

当時の規模は江戸期の本丸程度の

ものだったと推定されています。

 

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藤沢周平記念館

 

1600年、関ヶ原の合戦後、

徳川方東軍に与した最上義光

庄内・秋田県雄勝郡・由利郡を含む

57万石へと加増され山形藩を立藩、

義光は大宝寺城を隠居城とするために

城代新関久正に城の整備を命じ、

本丸の建物や濠や土塁が改修整備され

さらに周囲に高禄の家臣が配置されて

城下町形成の条件が整備された。

1603年、城の整備が整われると

庄内浜に大亀が上がったことを祝し

酒田の東禅寺城は亀ヶ崎城と改称され

亀ヶ崎に対し大宝寺城も縁起を担ぎ

鶴ヶ岡城と改称しました。

 

こちらの藤沢周平記念館は鶴岡市出身で

庄内藩を題材に数々の小説書かれた

時代小説家藤沢周平の活動を称賛して

2010年に開館された記念館です。

彼の著作本や関連資料の他に

自宅書斎を移築再現された展示物など

とても見ごたえがある資料館でした。

 

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百間堀跡

(東北公益文科大学大学院)

 

しかし 1622年、

家臣団の内紛により最上家が改役されると

酒井忠勝庄内地方に入部し庄内藩を立藩、

鶴ヶ岡城を居城と定め当時本丸程度の

小規模だった城郭を二の丸・三の丸を設け

本格的に城下町を整備を行いました。

 本丸は総面積約8.4haで高さ3.6mの土塁と

幅20m・深さ3m程の濠に囲まれ

藩主の居間や黒書院・白書院が建てられた。

 

二の丸は幅18m・深さ1.8 mほどの

濠と土塁に囲まれ東方に大手門が設置された。

三の丸は三方に濠と土塁を構え

入り口は桝形で従来の町屋は城外に移され

三の丸内の大部分が侍屋敷とされ

東方の大手門前には家老級の上級武士、

そのほかの三方には中級家臣が配置された。

三の丸北部には貢租米を貯蔵する

七つ蔵と呼ばれる倉庫が建てられ、

家臣の封禄米や扶持米にあてられました。

 

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御城稲荷神社

 

1654年、二の丸東南隅に角櫓が建築され、

1659年には本丸西北隅に櫓が建造、

1684年に二の丸東南隅櫓の

石垣普請が行われる等、

城の修築は酒井氏の入封後60年余年間

継続して行われようやく整備が行わました

その後1708年には城の鬼門にあたる

東北隅に御城稲荷神社が建立、

1805年には9代藩主酒井忠徳により

致道館が設けられるなど

時代とともに整備拡張が行われました。

 

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大賓館

 

しかし明治元年の1868年、

鳥羽伏見の戦いを皮切りに

新政府軍対江戸幕府軍による戊辰戦争が勃発。

江戸幕府軍に与した庄内藩

新政府軍に対抗すべく東北諸藩を中心に

奥羽越列藩同盟を結び新政府軍相手に

酒井玄蕃ら徹底抗戦を行いましたが

同盟諸国の敗戦により後に降伏、

新政府軍代表西郷隆盛の助力もあり

寛大な処分を言い渡される事となりましたが

1871年、廃藩置県により廃城となりました

 

こちらの大賓館は

大正天皇の即位を記念して創建されたもので

現在は郷土人物資料展示施設として使用され

鶴岡市指定文化財に登録されています。

 

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荘内神社

 

1876年、城郭の建物は殆ど破却され

城跡は鶴岡公園として整備されると

旧藩主を慕う庄内一円の人々によって

1877年鶴ヶ岡城旧本丸跡に

酒井氏初代忠次・2代家次・3代忠勝

9代忠徳を祀る荘内神社が創建され

毎年季節事に大祭が行われており

続100名城にも選定されています。

 

春には桜の名所、夏の例大祭

近隣周辺には旧致道館や致道博物館等

庄内地方きっての観光スポットですので

鶴岡市に旅行の際は鶴ヶ岡城及び荘内神社に

ぜひお越しください

以上鶴ヶ岡城の歴史と史跡のご紹介でした。

 

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こちらが鶴ヶ岡城の場所です。

 

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