KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

鶴岡市の歴史と史跡をご紹介(藤島エリア近世~近代編)🏞

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どーもKABUOです。

 

山形県庄内地方鶴岡市藤島エリアの

歴史と史跡を巡る旅に行ってきました。

 

前回の記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

 

今回は江戸時代から明治時代を中心に

芭蕉も通った歴史の道や

東田川郡の中心でありました

東田川郡役所等の歴史や史跡を

ご紹介します。

 

 

 

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鶴岡市の歴史と史跡をご紹介(藤島エリア近世~近代編)🏞

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池神社

 

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新関久正の墓所(法眼寺)

 

近世の時代

1601年、関ケ原の合戦後、

慶長出羽合戦の功績により

最上義光庄内地方の領有が認められ

山形藩を立藩、

藤島城には新関久正が7000石、

添川城に一栗高春が1000石で配置された。

藤島に着任した新関氏は

南北朝の争乱から天正一揆に至るまで

たび重なる戦火によって荒廃した

城下や寺社の復興に意をそそぎ、

同時に生産増強のために

灌漑用の新堰の開削を図ります。

これは完成しないままに終わり、

のち酒井氏の統治時代に再度起工され

藤島一帯の水田を潤す因幡堰となります。

 

1614年、義光の死後、

次男最上家親家督を継ぐと

これに異を唱えた一栗高春が反乱を起こし、

亀ヶ崎城主志村光惟と大山城主下次右衛門を

襲撃し殺害する事件が起きます。

その後添川城に立て籠もりましたが

新関氏や狩川城主北館氏の追討を受けて

滅ぼされました。

この事件の背景は大阪冬の陣直前、

豊臣秀頼とも交友がある

義光三男清水義親が豊臣方に通じていると

疑惑をかけられた時期でもあり、

豊臣方に内通しており内部分裂を図った

破壊工作だとも考えられています。

(諸説あり)

 

こちらの池神社は

伝承では新関久正が因幡堰の工事の際、

社殿に21日間こもり事業の完成祈願し

神楽を奉納したと伝えられており

池神社社例際古都神楽は古式を伝える

貴重な神事であることから

鶴岡市指定無形文化財に指定されています。

参道にあります山門は桃山時代に廃寺となった

宮目寺の山門を移築したものと伝えられ、

鶴岡市指定有形文化財になります。

また鶴岡市藤島にあります法眼寺には

新関久正の墓所が建立されており

こちらも鶴岡市指定史跡なっています。

 

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歴史の道

 

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聖徳太子

 

1622年、最上家の内紛を重く見た

幕府により最上家は改易を命じられると、

酒井忠勝が入部し庄内藩を立藩、

当町域も幕末まで統治される事となります。

近世の藤島エリアには主要街道が多く通り

参勤通路にも使用された江戸街道(清川街道)は

鶴岡を起点に庄内町清川口至る

庄内地方で最も重要な道であったため

宿場町が設けられ藤島村下町には

藩主の休憩所として御茶屋(本陣)がありました。

こちらの本陣は熊本藩を改易され

酒井忠勝に身を預けられ後に丸岡藩を立藩した

加藤忠広の没後にその居宅を

丸岡から移したもので、

1872年、松ヶ丘開墾場に移築され

現在も残されています。

 

また江戸時代中期の頃より

庶民の間で出羽三山参りが流行、

西の伊勢・東の湯殿山と呼ばれるほど

多くの人々が参拝に訪れました。

出羽三山へ至るルートは多種様々ですが、

主要街道の一つに舟形街道があります。

山形県舟形より大蔵村清水を通り

新庄市本合で舟に乗船し最上川を進み

下船後庄内町清川で舟を降り

狩川・三ヶ沢を通り

宿坊が並ぶ羽黒エリアの手向、

そして羽黒山ヘと向かうルートであったため

江戸街道と並ぶ主要街道として

多くの人々や荷物の往来があり

各宿場町を設け栄えた歴史を持ちます。

 

鶴岡市添川にあります歴史の道は

舟形街道の道沿いにあります

羽黒山参拝に利用された道になります。

現在道が舗装され直線となっていますが

当時は街道一の難所とも呼ばれていた場所で

俳人松尾芭蕉この道を通ったとされ、

鶴岡市指定史跡に登録されています。

 

同じく舟形街道沿いにあります聖徳太子塔は

1791年、添川村の職人達が

身体堅固・商売繁盛・護国安穏を

祈願して建立された石碑で

鶴岡市指定文化財に登録されています。

 

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東田川郡役所

 

近現代

 明治・大正期の藤島は

東田川郡の中心として繁栄した。

東田川郡役所の設置をはじめ

県立庄内農学校・税務署・警察署・郡農会

郡電気事業組合・赤川普通水利組合

因幡堰普通水利組合などの

多くの官公衙・事務所が置かれ

また旅館・商店街も賑わいを見せた。

しかし大正末期頃には郡役所廃止に伴い

ほとんどが鶴岡市に移転し、

町勢も一時衰えざる得なかった。

しかし明治中頃から庄内地方一丸となって

運動を進めていた鉄道敷設が

大正期に入りようよく実現され、

 1918年に国鉄陸羽西線(現羽越本線)

藤島駅が開業されると、

これによって畑地であった新町や駅前には

巨大な米倉庫が数年にして14棟も立ち並び、

米の大集積地として大きく変貌しました。

 

東田川郡役所歴史と史跡を

紹介した記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

 

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添川両所神社と獅子祭り

 

現在藤島エリアでは

つや姫はえぬきの生産を行い

庄内有数の米どころとして高く評価され、

両所神社や藤島各地で開催される

また藤島は古くから獅子の郷とも呼ばれ

たくさんの獅子踊りと神楽が伝承され

鶴岡市指定無形民族文化財となっています。

鶴岡市に観光のお越しの際は

藤島エリアにぜひ足を運んでみてください

以上鶴岡市藤島エリアの

歴史と史跡のご紹介でした

 

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