KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

鶴岡市の歴史と史跡をご紹介!(朝日エリア編)⛩️

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どーもKABUOです。

 

山形県庄内地方の歴史と史跡を

巡る旅に行ってきました。

今回は鶴岡市朝日村を中心に

湯殿山信仰で栄えた大日坊や注連寺、

庄内と村山を結ぶ主要街道

六十里越街道等の

歴史や史跡をご紹介します。

 

 

 

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鶴岡市の歴史と史跡をご紹介!(朝日エリア編)

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鶴岡市朝日庁舎

(旧朝日村役場)

 

東に月山に湯殿山、西に摩耶山

南には地名の由来となりました

朝日連峰と山々に囲まれた

鶴岡市朝日エリア。その歴史ですが

1954年、大泉村・本郷村・東村が

合併し朝日村が誕生。

2005年、平成の大合併によって

近隣市町村と合併を行い

新政鶴岡市が発足し現在に至ります。

 

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越中山遺跡

 

原始の時代。

赤川の河川沿いを中心に

石器・縄文時代の史跡が

数多く発見されており、

主に越中山遺跡・上野山遺跡、

砂川遺跡・野新田遺跡などがあり

現在のところ弥生時代

明確な遺跡は確認されておらず、

稲作文化の波及の時期は明らかでない。

 

こちらの越中山遺跡は

約17000年以前の旧石器時代頃の

遺跡だと考えられており

北方系・南方系の石器が多数出土され

砂川遺跡とともに市指定文化財

登録されています。

  

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注連寺

 

古代の時代。

712年、出羽国が設置されると

当地域もこれに属し、

律令制下では田川郡に属したと

推測されるが詳細は明らかにされていません。

東方にそびえる月山は

古くから山岳信仰の対象とされており

出羽三山奥の院と称される湯殿山

空海あるい蜂子皇子、役小角

開山したと伝えられ、

古来湯殿山権現・湯殿山大権現と称して

修験者の信仰を集め江戸期には

大日如来信仰の対象として栄えました。

 

こちらの注連寺は

825年弘法大師空海によって

開基されたと伝えられており、

湯殿山は女人禁制であったので

女人の遥拝所として栄えた歴史を持ち、

境内には七五三掛桜と呼ばれる

樹齢200年のカスミザクラがあり

鶴岡市指定天然記念物に登録されています。

 

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砂川の乳銀杏(八幡神社)

 

中世の時代

平野部を遠く離れた山間集落には

落人による開村伝説が多く残されており、

安部貞任の子孫によると伝えられる大平、

鎌倉期には工藤祐経

弟大学一族が住み着いたという大鳥、

南朝の将北畠氏の家臣が隠れたと伝えられる

荒沢・仙納・倉沢の集落がある。

また上田沢集落も天正年間に上総国から

移り住んだ長南氏一族によって

開かれたという伝承を持っている。

 

こちらの砂川の乳銀杏は

八幡太郎義家が前九年の役の時、

安部貞任を追ってこの地に来て陣を張り

銀杏の実を植えて八幡様を祀ったという

それが成長したものが

この乳銀杏であるという伝説があります。

高さ27m、樹齢500年以上といわれ

鶴岡市指定天然記念物に指定されています。

 

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大網館跡(旧大網小学校)

 

戦国期に入ると地頭の系譜を引く

武藤氏(大宝寺氏)が台頭し

庄内は同氏の支配下に入った。

最上・上杉氏との抗争の中で

戦国大名としての覇権確立を図り、

武藤義氏の時代最盛期を迎えましたが

家臣の裏切りによって義氏は自害します。

その後、義氏の弟武藤義興が家督を継ぐも

最上勢との戦いに敗北しました。

以後庄内は最上・上杉氏の争奪の場となり

1588年、十五里ヶ原の戦いにおいて

上杉方が最上勢を破り庄内地方

上杉氏によって統治される事となりました。

 

村山と庄内地方を結ぶ主要街道であった

六十里越街道に沿って

中世の城や館が多く確認されており

旧大網小学校の裏山にあります大網館跡は

館主は武藤氏の宿老渡野辺氏と伝えられ、

内陸方面からの侵略に

備えていたと思われます。

 

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 大日坊

 

近世の時代

関ケ原の合戦後庄内は上杉氏に代わって

最上氏の領有下に入りましたが

1622年、最上家の改易によって

庄内に酒井忠勝が入部すると庄内藩を立藩。

以後庄内藩によって幕末に至るまで

統治されることなります。

 

江戸時代の頃より

西の伊勢・東の湯殿山と呼ばれるほど

修験者のみならず庶民の間でも

出羽三山への参拝が盛んに行われ

登山口の七五三掛口・大網口は

白衣の参詣者(道者)の往来で賑わい

表口別当の注連寺・大日坊が

宿泊や案内の世話を行いました。

 

一世行人と呼ばれるような修行者は

両寺で得度しさらに仙人沢で山籠修行を

積まなければならなかった。

その中には木食行を重ねて入定して

即身仏となった僧も多く、

本明寺には本明海上人、

注連寺には鉄門海上人、

大日坊には真如海上人の

ミイラ仏が安置されています。

 

大日坊の歴史と史跡を

詳しく紹介した記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

 

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旧遠藤家住宅

(田麦俣多層民家)

 

また出羽三山参拝の活発化によって

庄内・村山地方周辺地域には

多くの宿場町が形成され、

六十里越街道沿いにあります

田麦俣集落もその一つになります。

江戸時代の幕末を向かえると

庄内藩は村山郡境の国境防備を開始し、

大網口にも大庄屋や役人が出張して

警戒にあたります。新政府軍の北上に伴い

庄内藩では本格的な防備を固め、

大網口にも藩兵が派兵されました。

 

朝日村田麦俣は

豪雪地帯であることから

暮らしと作業、養蚕が一体となった

多層民家が建造された歴史をもち

こちらの旧遠藤家住宅は江戸時代後期に

建てられたと推定されており

当初は寄棟造であったが

明治時代に養蚕が盛んになると

採光・通風の窓のある高はっぽう

(破風窓)に改築されたため

窓輪郭が曲線で武士が用いた

兜によく似た藁葺き屋根となっており

山形県重要文化財に登録されています。

 

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湯殿山神社 

 

現在鶴岡市朝日エリアでは

自然と信仰が息づく

生まれ変わりの旅を巡り

湯殿山神社には毎年多くの

観光客が参拝に訪れています。

山形県庄内地方に観光にお越しの際は

ぜひ朝日エリアに遊びに来てください

以上鶴岡市朝日エリアの

歴史と史跡のご紹介でした。

 

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