KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

鶴岡市の歴史と史跡をご紹介!(櫛引エリア原始~中世戦国時代編)🏯

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どーもKABUOです。

 

山形県庄内地方の歴史と史跡を

巡る旅に行ってきました。

今回は鶴岡市櫛引エリアの

原始時代から中世戦国時代を中心に

黒川能と関連する春日神社や

戦国時代の丸岡城等ご紹介します

 

 

 

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鶴岡市の歴史と史跡をご紹介!(櫛引エリア編)

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鶴岡市櫛引庁舎

(旧櫛引町役場)

 

鶴岡市櫛引エリアの歴史ですが、

1889年、町村制施行に伴い

東田川郡山添村・黒川村が成立すると

1954年、山添村・黒川村が合併し

櫛引村が誕生、

1966年、町制施行によって

櫛引町になりましたが

2005年の平成の大合併によって

鶴岡市と周辺町村との合併、

新政鶴岡市へと編入されました。

 

櫛引という地名の由来は不明ですが

中世の時代庄内地方を領地に持つ

大宝寺氏が現在の鶴岡市一部と

庄内町三川町含む

東田川郡一帯を私的な呼称として

櫛引郡の名称が発生した推定されており

それが戦国時代に一般的となり

公的に認められたとなったと思われます。

その後、江戸幕府の命によって

櫛引郡が廃止され田川郡に包括されました。

 

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本明寺

 

原始・古代の時代

縄文遺跡は赤川周辺や出羽丘陵西麓に

数多く点在し代表的な遺跡が松根にあり、

縄文前期から中期にかけての堂ケ沢山遺跡、

黒川にあります縄文早期から晩期にかけての

複合遺跡である三礎林遺跡などがあります。

712年、律令制時代に出羽国が置かれると

櫛引エリアは田川郡に属し、

尾張・上野・信濃・越後などから

移民が送り込まれて櫛引エリアの

開発が進められたと考えられています。

 

また櫛引エリアは

内陸道の六十里超街道の関門にあたり

村山地方との連絡面でも重要視され、

平安時代末期以来、

山岳信仰で栄えた湯殿山に参詣する

道者などもこの街道を上下しており、

また鎌倉初期の仏像が

数体残されていることなどから

早くから開発が進んでいたとみられます。

 

こちらの本明寺は

庄内地方村山地方を結ぶ

旧六十里街道沿いにあるお寺で

即身仏の「本明海上人」

(ほんみょうかいしょうにん)が

安置されています。

庄内地方に現存する

6躯の即身仏の中で最も古く、

損傷の少ない姿で残されているが、

それは上人の徹底した

木食行の賜物であると言われています。

即身仏堂の隣には、

入定塚(にゅうじょうづか)も残されており、

信者による石碑も建立されています。

 ( 山形県公式観光サイト引用)

 

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春日神

 

中世の時代

平安末期以来、最上川北岸に遊佐荘、

南岸に大泉荘が相次いで成立したが

櫛引エリアは大泉荘に属し、

鎌倉時代に地頭として入部した

武藤氏によって統治される事となります。

南北朝時代の争乱に際し、

羽黒山東麓の立谷沢城に拠る

北畠顕信南朝廷勢力と、

大宝寺(鶴岡市)の武藤氏(大宝寺氏)および

余目の安保氏などの北朝勢力が

藤島城をはさんで攻防を繰り広げました

 

こちらの春日神社は

807年に創建されたと伝えれ

13〜16世紀に庄内地方を領有した

武藤氏が厚く崇敬し社殿造営が行われました。

また武藤氏を頼って庄内に下った

京の能役者が春日神社周辺に

土地と住居を与えられ住み着き、

村人に能を伝えたのが国重要無形文化財

指定されています黒川能です。

 

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丸岡城

 

戦国時代

庄内地方の領有をめぐって

尾浦城主武藤氏・越後の上杉氏

最上の最上義光の3勢力が攻防を繰り広げ、

丸岡城は武藤義氏の弟丸岡義興の居城で

村山を結ぶ六十里超街道、

また置賜地方の長井から朝日山系を越えて

大鳥にぬける間道の

固めの要害の地となります。

 

武藤義氏はその後、

最上義光と結んだ家臣前森蔵人が謀反をお越し

尾浦城で自刃を遂げ弟義興が家督を引き継ぐと

上杉氏を後楯として

最上勢力と対抗しましたが、

1587年、義光の軍勢に敗れ自刃します。

しかし上杉氏家臣本庄繁長より迎え入れた

養子義勝が繁長の元へ逃げ帰った事により

武藤氏の命脈は辛うじて繋がれ、

翌1588年、繁長・義勝によって

庄内地方が奪還され上杉領へと編入されると、

最上氏に対する備えとして

松根・東荒屋・西岩本などの

諸楯が築かれました。

 

丸岡城の歴史と史跡を

詳しく紹介した記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

 

以上

の歴史と史跡

原始・中世戦国時代編のご紹介でした

次回は近世江戸時代を中心に

松根城や丸岡藩の歴史や史跡をご紹介します。

 

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