KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

朝日町 八ッ沼城の歴史と史跡をご紹介!(前編)🏯

スポンサーリンク

どーもKABUOです。

 

山形県朝日町にあります中世のお城跡、

八ッ沼城の史跡調査を行いました

城主原氏や春日沼と弥生姫の民話、

お城の歴史や史跡の様子を中心に

前編・後編と2部に分けてご紹介します。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

八ッ沼城の歴史と史跡をご紹介!

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20200916213112j:plain

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20200916213226j:plain

 

八ッ沼城跡(五百川城跡)
 

朝日町三中にあります標高286mの

小高い山に築城された八ッ沼城。

別名五百川城とも呼ばれており

その歴史は古く1090年、

若狭蔵人という人物が源義家に従い

現在の秋田県横手市で起きた内乱、

後三年の役に従軍すると

清原氏の残党・平田次郎・五郎を

討ち取った功績が認められ

八ッ沼の地を受け賜り移り住み、

砦を築いたのがはじまりだとされています。

 

八ッ沼城は最上川を自然の堀に見立てた

天然の要害で近くの八ッ沼ふれあい会館からは

町並みの素晴らしい景色が望めます。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20200916220638j:plain

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20200916220749j:plain

 

建久年間(1190〜98年)

蔵人の子孫重経が奥州合戦に従軍、

藤原泰衡の家臣・谷川右京を討伐したとされ

その後、源頼朝から恩賞でこの地を安堵され

五百川と称し八ッ沼に新たに塞を築き

この地の統治を続けましたが

しかし正平年間(1346年〜69年)に

長崎城主大江綱房と戦い討死し、

若狭氏は滅亡しました

 

八ッ沼城に向かう最中、

春日沼の駐車場と若宮寺に行く道中に

こちらの案内図が掲げられており

お城や周りの史跡がよく分かりますので

ぜひ確認してみてください

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20200916212516j:plain

 

若宮寺

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20200916212628j:plain


城主原甲斐守忠重の碑

 

文明年間(1467年〜1487年)、

応仁の乱で東軍総大将を務めた

細川勝元の家臣、敦賀城主原頼貞が争乱に敗れ

この地に来住し新たに築城したのが

現在の八ッ沼城だと伝えられており

この地を統治します。

 しかし1565年、または 1584年、

5代目当主原忠重の時代、

村山地方で勢力を延ばす

最上義光は武力制圧を行いました。

 

この戦いは五百川合戦と呼ばれており 

忠重と家臣小関加衛門、客僧羽黒弁寛は

500の兵を持って奮戦を行いましたが

八ッ沼城は落城、原氏は滅亡しました。

 

こちらの若宮寺は八ッ沼城主原氏の

菩提寺だったところで、

境内には五百川合戦で敗れ討死した

原忠重の碑が建てられています。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20200916221606j:plain

 

果沼の薬師堂

 

五百川合戦にはこのような

逸話が残されています。

 
八ツ沼城主、原甲斐守忠重に

原半兵衛兼道という若君がおった。

また鳥屋ヶ森城主というと、岸美作守に

それは美しい弥生姫という息女がおったそうだ。

果沼のお薬師様のお祭りに二人が出会い、

見初めるようになった。

半兵衛兼道が弥生姫を八ツ沼の名勝地春日沼に誘い、

二人は楽しい一時を過ごしていた。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20200916221845j:plain

 

春日沼

 

和合に和合但馬守秋広侍がいて、

その日に最上川で釣りをしていたが釣れなくて、

春日沼で釣をしようと春日沼に来ていた。

たまたまそこで半兵衛兼道と一緒にいる

弥生姫をみて一目ぼれをしてしまう。

和合但馬守は弥生姫を奪おうとしたが、

反対に半兵衛兼道の警護の侍に

おっぱらわれてしまった。

その後半兵衛兼道と弥生姫の

結婚話はとんとんと進み婚約した。

おもしろくないのが和合但馬守で、

花嫁を略奪せんと宮宿清水の渡し場で待ち伏せし、

むがさりの行列を襲ったが、

行列を守っていた侍におっぱらわれて退散した。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20200916221935j:plain


弥生姫像

 

腹の虫が納まらない和合但馬守は、

山形城主最上義光

八ツ沼城主、原甲斐守忠重と

鳥屋ヶ森城主、岸美作守が

山形城をねらっていると讒言した。

その讒言により最上義光が兵を動かした。

これが五百川合戦の原因と言われている。

多勢に無勢、八ツ沼城に敗戦の色が濃くなったころ、

半兵衛兼道と弥生姫は二人そろって死のうと、

お城の後ろ側にある屏風谷へ下り、

春日沼に身を沈めた。

そして夫婦岩になったと言われている。

(朝日町エコミュージアム引用)

 

八ッ沼城北側にあります春日沼には

雌雄の竜神が住むと伝わり

禍いが起こる時や世の中に異変が起きる時に

水の色が赤くなるとも伝わり

また沼の東側には五百川合戦で討死した

原忠重の子、兼道と共に入水した

悲劇の弥生姫の像が建てられており

湖面に木の葉が一枚浮いていないのは

弥生姫が毎朝掃除するからとも

伝えられております。

 

以上、八ッ沼城の歴史のご紹介でした

次回は最上義光時代の歴史や

お城の現在の様子と残された史跡の様子を

ご紹介します。

 

次回の記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

 

寒河江市西村山郡の城跡

おすすめ関連記事

www.yamagatakabuo.online

www.yamagatakabuo.online

www.yamagatakabuo.online

www.yamagatakabuo.online

www.yamagatakabuo.online

www.yamagatakabuo.online

www.yamagatakabuo.online

 

スポンサーリンク

 

スポンサーリンク