KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

村山市の近世・近現代史の歴史と史跡をご紹介!🏞️

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どーもKABUOです。

 

山形県村山市の歴史と史跡を巡る

旅に行ってきました。

今回は村山市の歴史と史跡を

時代を順に追いながら

1部、2部に分けご紹介します。

 

前回の記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

 

今回は近世江戸時代から近現代までを

ご紹介します。

 

 

 

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村山市の近世・近現代史の歴史と史跡をご紹介!🏞️

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最上川羽黒神社

 

近世江戸時代、

関ヶ原の合戦後、奥州出羽合戦の恩賞により

最上義光は57万石を授かり山形藩を立藩。

楯岡城に弟である楯岡光直を入部させ

城郭・城下町の整備にあたらせましたが、

1614年、義光が死去すると

家中で争い事が絶え間なく起こります。

1622年、最上家家督争いを発端とした

最上騒動により家臣団の分断に拍車が掛かり

江戸幕府の裁定によって改易を命じられ

楯岡城は廃城となりました。

 

しかし最上義光村山市に残した

業績は後世に残る素晴らしい物でした

1580年、最上川舟運の重要性に目を付けた

最上義光は当時難所と呼ばれた

碁点・隼 ・三ヶ瀬の掘削工事を行うと

舟運が飛躍的に発展させる事に成功、

その後、江戸時代まで庄内地方を含む

開発工事が行われる事となります

 

最上家は改易されましたが、

最上川舟運の発展により

北前船から積み荷された

多くの物産は城下町に運搬され

また特産品の紅花は上方にも喜ばれ

後世に渡り村山地方の発展の礎を築きました。

 

写真の羽黒神社

航路が開かれその後さかんになった

舟運の安全を祈って創建されたといわれ

船頭や水夫たちが通るたびこの神社に

航行の安全を祈って詣でたといいます。

 

また羽黒神社近くにあります最上川美術館は

最上川を愛した画家、 真下慶治の

貴重な作品が展示され

美術館からは優大な最上川の風景が広がり

人気ビュースポットとなっております。

 

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居合神社

 

秋田藩佐竹氏によって羽州街道が整備されると

現在の村山駅前を通る県道29号線

120号線を中心に集落が移転され

楯岡地区、本飯田、土中田地区に

宿場町が設置され人々や荷物の往来によって

栄える事となりました。。

 

こちらの居合神社は

居合の祖、林崎甚助は祀った神社で

羽州街道を通行する

新庄・庄内・秋田などの武士は必ず

この神社に参拝したといいます。

 

居合神社と林崎甚助の歴史を

詳しく紹介した記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

 

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最上徳内記念館

 

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徳内神社

 

最上家が改易後、

最上川西部沿いは新庄藩によって

比較的に安定的に統治されておりましたが

楯岡を中心とした最上川東部沿いは

統治者の交代が目まぐるしく行われ

幕府領・白河藩分領・館林藩分領が

入り交じるという状態でありました

 

1682年、藩政の失敗や

巡見使来訪の際の不手際によって

咎め立てらえた遠江国横須賀藩主本多利長は

領国5万石から1万石へと減封され

村山地方入部し村山藩を立藩します。

しかし1692年、利長が死去し養嗣子の

本多助芳が家督を相続しましたが

1699年、越後国糸魚川藩に移封され

藩政わずか17年で廃藩となります。

その後も領土や統治者が入り乱れ

幕末、明治時代を迎える事となりました。

 

 

写真の最上徳内記念館は

幕府の蝦夷分隊の一員として

8回も蝦夷地を渡り調査を行った

村山市楯岡出身の北方探検家

最上徳内の業績と資料が展示され

東沢バラ公園近くには

最上徳内を祀った徳内神社が建立されています。

 

また最上徳内が探検拠点であった

北海道厚木町との縁から

厚木囃子が村山市に伝わり

むらやま徳内祭りとして

毎年開催されるようになりました

 

むらやま徳内祭りの様子を

紹介した記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

 

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愛宕神社

 

古くから火伏せ愛宕大権現と呼ばれ

火伏せの神として信仰されている愛宕神社

その昔、楯山と連なっており

愛宕神社から迂回して街道を

通らなければなりませんでした。

明治時代、山形県三島通庸

切り通しの開削工事を行った結果、

楯岡晦日町から楯岡二日町まで

現在のように直進出来るようになりました

 

愛宕神社ケヤキ林は

山形県指定天然記念物に指定され

境内には楯岡光直の息子で楯岡城最後の城主、

楯岡城主多田義賢の碑が建立されています。

 

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大円院と葉山信仰

 

村山市寒河江市の市境にあります葉山

702年、役行者の弟子行玄によって開かれ

医王山金剛日寺大円寺と号した。

後に慈覚大師や葉上僧正栄西が中興となり

寒河江の大江氏、山形の最上氏、

新庄藩戸沢氏と歴代領主の

厚い信仰を受けました。

 

江戸時代初期までは羽黒山・月山とともに

出羽三山の一山に数えられており

宿坊は20ヶ所、末寺は50を越え

葉山修験は最盛期を迎えましたが、

江戸時代中期から徐々に衰退するなか

明治維新による廃仏毀釈によって

追い討ちをかける事となります。

 

1946年、日本が敗戦を迎えた翌年、

東根市神町に米軍が駐留、

大円院の敷地内は演習地として接収され

寺院は取り壊される事となり

現在の村山市岩野に移転する事となりました。

 

村山市岩野地区から葉山登山道を登ると

葉山信仰にまつわる史跡が数多く残されており

多くは市の文化財として登録されております。

 

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東沢バラ公園

 

現在村山市では

蕎麦の実の生産が盛んに行われ、

最上川の急流を行かした船下りの観光や

毎年艶やかに咲く東沢公園バラ祭り、

居合い発祥の地として居合道を学びに

多くの外国方々が観光に訪れております。

山形県に観光にお越しの際は

ぜひ村山市に訪れてみてください

 

以上

村山市の歴史と史跡のご紹介でした

 

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