KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

青森市の歴史と史跡をご紹介!🏖️

スポンサーリンク

どーもKABUOです。

 

青森県津軽地方の歴史と史跡を

巡る旅に行って来ました。

今回は青森県青森市中心街の

歴史と史跡をご紹介します。

 

青森市の歴史と史跡をご紹介!🏖️

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190814150753j:plain

 

青森駅

 

青森市の歴史ですが

1889年に町制施行により

青森町が成立すると

その後、1897年に市制施行によって

青森市へと変わります

 

その後、1939年から1962年にかけ

油川、滝内、大野、筒井、横内、東岳

高田、浜舘、荒川、新城、奥内、原別

後潟、野内の町村を編入すると

2005年、平成の市町村大合併によって

浪岡町を編入し現在に至ります。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190814110334j:plain

 

小牧野遺跡の環状列石

 

原始時代。

現在よりも青森市街は海の水位が高く

海の下にあった考えられており、

中心街から離れた周辺地区に

紀元前4000年前以上の

縄文遺跡が100以上発見され、

三内丸山遺跡や小牧野遺跡等

かつて多くの集落があった

痕跡が残されております。

 

三内丸山遺跡について

詳しく紹介した

記事はこちらです

 

tohokuhistory.yamagatakabuo.online

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190814154919j:plain

 

善知鳥神社

 

古代時代・中世の時代

青森市一帯は王朝貴族により

外ヶ浜と呼ばれており、

鎌倉時代に 成立した夫木和歌抄に

「みちのくの外ヶ浜なる

呼子鳥鳴くなるうとうやすかた」

歌われている記録が残されております

 

「うとう」は青森市の古名である

善知鳥に関連しており

写真の善知鳥神社は社伝によると

允恭天皇の時、鳥頭中納言安潟が

天皇の怒りをかい、この知に流され

海神の宗像三女神を祀った説や

658年、阿部比羅夫が蝦夷討伐の際に

宗像像を祀った説、

またその後坂上田村麻呂が再建したの

伝説が残されております。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190814101138j:plain

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190814101111j:plain

 

横内城

 

鎌倉時代

前九年の役で源義家親子に討ち取られた

安部貞任の血を引くとされる

津軽安藤氏一族が津軽地方一帯を

統治しておりましたが、

南北朝時代の動乱に入ると

根城を居城とする南朝廷派であった

南部氏と激しく戦う事となります

 

しかし奮戦虚しく津軽地方を捨て撤退すると

その後南部氏によって統治される事となり、

南部氏支族である堤氏を当地に派遣し

横内城を築城し室町時代にかけて

青森市一帯を統治する事となりました。

 

その後、勢力を着々と広げる南部氏でしたが

跡目を巡る家中の争いが起こると

津軽地方独立を目指す津軽為信によって

支城を次々と攻略されてしまい

三代目城主堤弾正は高田城と共に

滅ぼされてしまいます。

 

以後、津軽地方は

津軽氏によって弘前藩が立藩され

江戸時代から明治時代まで

統治される事となりました。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190814173942j:plain

 

諏訪神社

 

江戸時代の1625年

弘前藩第2代藩主津軽信枚の時代に

幕府から津軽米を江戸に輸送することを許され、

太平洋海運への参加が促されることになりました。

そこで陸奥湾に面した現在の青森市中心部に

新しい港町を作る事にしたのです。

(青森市公式ホームページ引用)

 

そして善知鳥村という地名から

青森という名前へと変更になりました。

 

青森の地名の由来は

かつて沿岸部に浜松が覆われた

小高い丘があり、そこが古くから

「青森」とよばれていたことに

由来するといわれています

(青森市公式ホームページ引用)


その後、信枚の家臣の森山弥七郎によって

港町の開発が行われ城下町弘前に次ぐ

大きな町へと成長し発展しました。

 

こちらの諏訪神社は

元は合浦公園近くにあったのですが

青森開港にあたり航海安全祈願の為に、

森山弥七郎によって移転され

1872年の大火によって拝殿が焼失し

現在地に移された歴史があります。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190814163303j:plain

 

野内番所跡 

 

青森市野内地区にあります

野内番所は南部藩に対する番所として

秋田藩に対する大間越、碇ヶ関とともに

津軽三関と呼ばれており

奥州街道を通過する人や物を

監視した場所です。

 

奥州街道は青森から野辺地を通り

江戸を結ぶ街道でありましたが

弘前藩の立藩の経緯から南部藩とは仲が悪く

弘前藩ではあまり活用されず

主に北海道の松前藩が参勤交代の際に使用し、

現在でも当時の街道の名残を思わせる

松並木がしっかりと残されておりました

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190814102835j:plain

 

大星神社 

 

江戸時代後期、

異国船が外ヶ浜に出没するようになると

弘前藩では北方警護の任務を与えられ

御台場を設置し海上防衛にあたります。

1868年、戊辰戦争が起こると

情勢を察知し弘前藩は新政府軍側に味方し、

 実績作りの為に幕府側付いた南部藩領土

野辺地に侵攻し争う事となります。

 

こちらの大星神社は792年に

朝廷の蝦夷護祈願所として創設され

801年、坂野上田村麻呂が

本殿を本殿を再興したとされ、

弘前藩では蝦夷鎮護の由来をもつ

同社を篤く敬いました。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190814093553j:plain

 

雪中行軍遭難資料館

 

明治時代、箱館戦争が始まると

軍港に適していた青森は

兵站基地として活用されるようになると

多くの兵士が駐留します

 

戦争後、廃藩置県が行われ

当初弘前に県庁が設置されましたが

弘前藩と南部藩の争いの歴史的経緯や

港町としての将来性が見込まれ

青森に県庁を移転行い青森県が誕生、

青森市の基礎が築かれました。

 

こちらの雪中行軍資料館は

青森に配属された歩兵第5連隊が

雪山の八甲田山で演習を行い

多くの人命が失った歴史を

後世に伝えるために建造された

資料館になります。

 

八甲田雪中遭難事件を

詳しく紹介した記事はこちらです

tohokuhistory.yamagatakabuo.online

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190814153936j:plain

 

函館連絡船メモリアルシップ八甲田丸

 

1891年

東北本線が開通されると青森は

鉄道、海運など交通の要衝として

1894年には青森~小樽間の新航路や

ウラジオストクや樺太の航路も開かれると

北海道やロシアへと渡る寄港地として

貿易や産業が大きく発展していきます

 

しかし太平洋戦争が始まると

青森でも空襲が激しさを増し

北海道へと渡る連絡船11隻が爆撃を受け

沈没し300人以上が亡くなった

悲惨な歴史がありました

 

写真の八甲田丸は、1964年

函館を結ぶ連絡船と活用され

現在は資料館として

船内を散策する事が出来ます。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190814151859j:plain

 

青森ねぶた祭り

 

現在青森市では

特産品のリンゴの栽培の他に

観光にも力を入れており

毎年開催される青森ねぶた祭りには

多くの観光客が訪れておりますので

青森市にぜひ観光に訪れてみてください。

 

以上

青森市の歴史と史跡のご紹介でした。

スポンサーリンク