KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

新庄市の歴史と史跡をご紹介!🏞️

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どーもKABUOです。

 

山形県最上地方新庄市

プチ旅行に訪れました。

 

新庄市の深い歴史が詰まった

史跡を巡りましたので

新庄市の歴史と共にご紹介します。

 

 

 

 

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新庄市の歴史と史跡をご紹介!

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新庄駅

 

新庄という名前の由来ですが

現在の東根市付近にあった

小田島荘に対する新しい荘園という

意味がある説と、

大蔵村にあります清水城に対する

新しい城という意味が新庄という

地名になった説があります。

 

1889年

新庄小田島町、新庄沼田町、新庄五日村

新庄十日村、新庄金沢村、飛田村が

合併し新庄町が発足。

 

その後、

稲舟村、萩野村、八向村が編入され

1949年、市制施行され

新庄市となりました。

 

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石動神社(いしするぎ)

 

新庄市が文献に登場するのが

奈良時代の頃、

武人大野東人蝦夷討伐の際、

国府多賀城から色麻柵を通り

尾花沢に至り、比羅保許山に

陣した記録されております

 

こちらの石動神社は古来より

秋田県雄勝地方を結ぶ

古い街道が通っていたとされ

大野東人蝦夷討伐の際、

戦勝祈願を行い杉を植え、

 

現在その杉は親杉と呼ばれており

山形県指定天然記念物に

指定されています

 

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判官神社

 

鎌倉時代が始まる前の頃、

兄頼朝に追われ、逃走を図った

義経と弁慶一行が同市にあります

亀割山を越え奥州平泉に向かったとの

歴史が残されており、

 

その時、途中くたびれて休んだ所が

後に休場(やんば)と呼ぶようになり

うとうとしていた所を「うと坂」

 

また新庄市鳥越地区の地名の由来に

源義経東下りのおり、

暁に鶏の鳴き声を聞きながら

通りすぎた事からから

地名の由来になった事から分かるように

 

新庄市には義経関連の

史跡が由来が残されており

こちらの判官神社には義経が祀られ

安産の神として信仰されております。

 

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八向楯(矢向神社)

 

新庄市一帯は大蔵村に居城を置く

清水氏によって統治され市内には

鳥越楯、角沢楯、落楯、片平楯等

戦国時代の史跡が残されております。

 

写真の八向楯跡は

戦国時代に合海志摩守が築城し

八向地区一帯を統治しておりましたが

最上義光に攻められ水源が断たれ

ついには落城しました。

 

また八向楯中腹にあります

矢向神社は874年に創建された

とても古い歴史を持つ神社になります。

 

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最上公園(新庄城趾)

 

江戸時代、

 

最上義光の領土だったのですが、

1622年、最上家の内紛により

幕府に改易を命じられます

 

その後、常陸の国より

戸沢政盛が最上地方に入部すると

当初、真室川町にあります

鮭延城に入りますが狭小だった為、

現在の新庄市中心部に

新庄城を築城し新庄藩は立藩、

この時より250年に及ぶ戸沢氏の

藩政が始まりました。

 

新庄城と戸沢氏関連の歴史と史跡を

こちらの記事で紹介してます

 

www.yamagatakabuo.online

www.yamagatakabuo.online

 

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鳥越八幡神神社

(鳥越楯跡)

 

戸沢氏と関連する神社で

新庄市でもっとも古いとされる社殿で

国の重要文化財に指定されております

 

その歴史ですが

山形件大蔵村にあります

清水城、城主清水大蔵大輔の家臣、

鳥越九右衛門の居城があったところで

鳥越氏は清水氏の家臣団のなかでも

最大の存在だったとされます

 

その後、

鳥越氏は最上義光の家臣となり

1622年の最上家改易後も

最上氏と共に近江へと移り

鳥越楯は廃城となります

 

1638年

新庄、藩初代藩主戸沢政盛の養子

定盛が鷹狩りに出た折に神威を感じ

元々、鳥越楯があったこの場所に

城下を一望できる現地に遷して

社殿を造営し、城下の鎮めにしたと

いわれています。

 

神社を散策しますと

確かに神聖な感じを受け

神威を感じると言う表現は

あながち間違いで無いなと

思いました。

 

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鳥越の一里塚

 

戸沢氏が新庄城を築城する

お城を中心に城下町が形成されると

新庄から山形、福島通り

江戸に向かう羽州街道が整備され、

 

江戸へと向かう最中

一里毎に目印となる松やエノキ

ブナの木が植林、整備され

こちらの鳥越の一里塚も

街道があった事の

名残として残っており

市指定史跡として登録されております。

 

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松尾芭蕉乗船之地

 

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芭蕉の句碑と柳の清水跡

 

奥の細道で有名な俳人松尾芭蕉

新庄に訪れた歴史があります。

 

新庄の風流亭を訪れる予定であった

芭蕉曽良の一行は

鳥越の一里塚前を通り掛かかり

湧き水溢れる柳の清水で喉を潤し

小休憩を取ったとされ

 

その後風流亭の渋谷甚兵衛宅を

訪れた芭蕉

「水の奥、氷室尋ねる柳かな」

という挨拶の句を読んだとされます。

 

その後、出羽三山を向かうため

新庄を出発した芭蕉

当時、新庄から庄内までの道が

掘削されておらず、最上川

舟を利用して庄内に向かうのが

ポピュラーだった為

 

新庄市本合海から舟で乗船し

最上川の風景に感動した芭蕉

「五月雨を、集めて早し、最上川」 

という一句を読み

川を渡り出羽三山を目指しました。

 

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旧矢作家住宅

 

江戸時代後期に

建築された旧矢作住宅

 

こちらの旧家は

元々新庄市萩野にありましたが

新庄市泉田地区に移転した物で

豪雪地方特有の建造をしており

当時の人々の暮らしぶりが

うかがえることから

新庄市重要文化財として保存され

一般開放され見学する事が出来ます。

 

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まかどの地蔵

 

接引寺にあります、まどか地蔵

 

豪雪地帯でも知られている

最上地方は多くの飢饉にも

見舞われた歴史を持つ地域になります

 

1755年

この地を襲った酷い冷害による

大飢饉が起こり餓死者が多く

出てしまう悲惨な歴史がありました

 

この餓死者を供養するために

村々の人々が建立したのがこちらの

まどか地蔵で

 

お彼岸の季節になりますと

ぼた餅や団子をお供え

地蔵様の口にあんこ口に付けて

食べさせる風習が

この地では行われております

 

写真を見て気づきましたが

口元があんこで汚れていました。

 

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 角沢八幡神社

 

幕末の新庄藩は悲惨な物でした。

 

 1868年、戊辰戦争が起こると

旧幕府軍と東北を含む諸藩は

奥州越列藩同盟を結び

新政府軍に抵抗を試みます。

 

当初新庄藩

同盟軍に属しておりましたが

後に離脱し新政府軍に付くと、

庄内軍は角沢口から

新庄城下に突入し新庄城は没落、

城下は大火に見舞われました。

 

角沢八幡神社

明治戊辰戦争の際激戦地だった場所で

境内にあります大杉は

市指定天然記念物になっております。

 

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泉田八幡神社

 

こちらの神社には

新庄市指定文化財工芸

戸沢家馬標三階笠が飾られています

 

1590年

豊臣秀吉小田原征伐の際、

羽州角館の城主であった戸沢盛安

(藩祖政盛の父)が一番乗りの功名をたて

それを本陣の秀吉に知らせるため

とっさの思い付きで足軽の陣笠三枚を

槍にさして振ったといわれており

 以来、戸沢家の馬標は三階笠と

正式に制定されました。

 

現在の馬標は、十一代藩主の正実が

明治戊辰の役で新庄城が落城し、

秋田領に退却する際、

泉田八幡神社に預けていったものと

伝えられています。

(案内掲示板引用)

 

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新庄市エコロジーガーデン

「原蚕の杜」

 

 明治時代、

 

奥羽本線の開通にしたがい

新庄駅が設置されると鉄道の町として

最上地方中心都市として発展し

養蚕や木工業、陸軍に収める

軍馬の馬産地として栄えました。

 

こちらの新庄市エコロジーガーデン

「原蚕の杜」にあります産直まゆの郷は

新庄市で取れる新鮮な野菜や

産物を販売する産直所ですが、

 

昭和の始めの頃養蚕産業を研究する

研究機関が置かれ

平成12年に閉所されるまで

最上地方の産業を支え、

建物は登録有形文化財として

一般開放されております。

 

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雪の里情報館

 

江戸時代豪雪地帯より

多くの飢饉が続いた最上地方では

明治、大正時代に入っても変わらず

農民の多くは貧困に喘ぎ娘を身売りする

家庭が後を絶ちませんでした。

 

そんな中、昭和8年に

雪害救済運動の一貫として

積雪地方農村経済調査所が設置され

雪害に苦しみ農村の救済更生を担う

機関として果たします。

 

現在、雪の里情報館として

当時の建物が開放され

さまざまな雪国農村経済に関する

資料が展示され観覧する事が可能です。

 

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新庄祭り

 

現在新庄市では

最上地方経済産業の根幹を担い

農業や製造業、観光に力を入れており

江戸時代から続く新庄祭りは

 

2016年

ユネスコ無形文化遺産に登録され

多くの観光客が訪れております。

 

また有名漫画家を多く排出しており

新しい観光スポットとして

注目を浴びておりますので

ぜひ新庄市に観光に訪れてみてください

 

以上、

新庄市の歴史と史跡の

ご紹介でした。 

 

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