KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

新庄城と新庄藩主戸沢氏の歴史と史跡をご紹介!🏯

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どーもKABUOです。

 

山形県新庄市にあります新庄城と

江戸時代新庄藩を立藩し

最上地方を統治しました

藩主戸沢氏の歴史と史跡を

ご紹介します。

 

 

 

 

 

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新庄城と新庄藩主戸沢氏の歴史と史跡をご紹介!

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最上公園

 

新庄市堀端町、最上公園。

 

春の季節には公園内に

桜が咲き誇るその場所は

かつて新庄藩戸沢氏が治めていた

新庄城があった場所です。

 

 

最上公園(新庄城趾)の

場所はこちらです。

 

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 新庄城堀跡

 

戦国時代、最上地方は

大蔵村最上川流域を治めた清水氏、

現在の最上町を治めていた細川氏

秋田仙北地方を治めていた

小野寺氏の客将で鮭延城を本拠地に

真室川周辺を治めていた鮭延氏の間で

領土を巡る争いが起こっておりました。

 

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新庄城趾

 

新庄城は別名 沼田城とも呼ばれ

築城時代は詳しくわかっておりませんが

この地を治めていた豪族国人衆によって

館が形成されたの城の全身となり、

 

戦国期は清水氏の支配下に置かれ

日野左京亮が治めておりましたが

最上義光の最上地方への侵攻により

最上氏に屈服し最上氏の領土へと

変わっていきます。

 

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表御門跡

 

最上地方を治めた最上義光

この地に家臣日野将監をに治させ、

十日町や五日町などを開き

町人を集住させたと伝わっており、

 

新庄の名前の由来には

清水城に対して新しい城を意味する

新城が名前の由来となった

説があるそうです。

 

写真の表御門跡は

本丸正門があった所で

当時は石垣を土台にした

櫓門があったとされます。

 

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 土豪

 

しかし、最上義光の死後

家臣団が分裂し内紛状態に陥り

1622年、最上家が改易となると

山形藩には磐梯平を治めていた

鳥居忠政が入部。

 

そして新庄最上地方には

常陸の国を治めていた戸沢政盛が

入部し新庄藩が立藩され

戸沢氏の時代が始まりました。

 

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何故、戸沢氏が新庄に入

部したかと言いますと

鳥居忠政の妹と戸沢政盛の間に

婚姻関係が結ばれており

 

隣国の秋田佐竹氏と仙台伊達氏

そして米沢の上杉に対して

江戸幕府は警戒していた為

山形藩に鳥居忠政を入部させた際

親類を近辺に置き

山形の守りを強固にする

狙いがあったとされます。

 

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新庄城絵図

 

 

戸沢氏はどのような

人物だったのでしょう?。

 

戸沢氏は平忠正の子、平維盛[2]より始まり大和国三輪を本拠地とした。その子、平衡盛の代に木曾義仲に属していたが、その不義を憎み奥州磐手郡滴石庄(岩手県雫石町)に下向した。

1185年源頼朝に臣従し、屋島の戦い奥州合戦での活躍が認められ、磐手郡滴石庄内に4千6百町歩の土地を与えられ大身の御家人となる。その時に滴石庄の戸沢邑に居を構えたことから「戸沢氏」と称した。

(Wikipedia引用)

 

源頼朝配下として活躍しその後、

岩手県雫石地方の荘園を与えられ、

名を戸沢氏と称した事から

戸沢氏の歴史が始まったとされます。

 

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新庄天満神社

 

南北朝の時代になりますと

南部氏との争いに負けてしまい

 

岩手県雫石から秋田県角館に移り

仙北地方を治める戦国大名として

秋田氏、小野寺氏と秋田の覇権を争う

戦国大名として活躍していきます。

 

永禄9年(1566年)、道盛にひとりの男子が生まれる。

後に「鬼九郎」の異名を取り、北奥随一の名将と謳われた戸沢盛安である。

盛安は小野寺氏や安東氏を破って勢力を拡大し、仙北三郡の完全平定に成功。戸沢氏の全盛期を出現させる。中央の動静にも絶えず注目し、豊臣秀吉小田原征伐には東北地方戦国大名の中ではいち早く参陣して秀吉の賞賛を受け、所領を安堵された。

(Wikipedia引用)

 

戦国時代になりますと

戸沢盛安の活躍により

勢力を拡大し豊臣秀吉小田原征伐

いち早く参人したことにより

所領を安堵されます。

 

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新庄天満神社の撫で牛

 

しかし、関ヶ原の戦いでは

徳川家康方に味方しますが

上杉討伐の際、秋田氏の拡大を

恐れ消極策に出てしまった為

後に咎められ茨城県常陸松岡に

転封されてしまいます

 

写真の新庄天満神社

秋田角館時代から

戸沢氏の氏神として崇拝されており

 

天満神社に祀られている

撫で牛の頭を撫でると

頭を撫でると頭がよくなり

自分の体の悪い所と同じ所を撫でると

その個所が治ると言われています。

 

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新庄城天守台跡

 

そして最上家改易の後、

初代新庄藩主戸沢政盛が

最上地方に入部し新庄藩を立藩

以後、 明治維新まで戸沢氏が

最上地方を治める事となります

 

新庄藩は6万石程度の石高でしたが

新田開発や鉱山開発、市場改革を進め

6万8千石まで石高を伸ばしましたが

放漫財政が続き次第に

国力を落として行くこととなりました

 

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戸沢神社

 

幕末を迎え

時代が慌ただしく変わるなか

新庄藩にも時代の波が押し寄せます。

 

慶応3年(1867年)の庄内藩上山藩出羽松山藩等による江戸薩摩藩邸の焼討事件では、薩摩藩と直接交戦はせず、江戸市中の巡邏を担当した。翌年(1868年)からの戊辰戦争では開戦当初の4月、新政府側の奥羽鎮撫軍が新庄に入ったため、4月23日に共に庄内領清川に攻め込むが、迎撃され惨敗した。同年、奥羽越列藩同盟に参加した。庄内藩に協力して新政府軍を圧倒したが、新庄藩の北に位置する久保田藩秋田藩)が新政府側へ変節したのに同調し、奥羽越列同盟から離脱した。

(Wikipedia引用)

 

幕府軍と新政府軍との争いが始まると

東北各藩は新政府軍に最初味方しますが

新政府軍の横暴な態度に激怒し

幕府軍側に傾倒し

奥州越列藩同盟を組織します。

 

新庄藩は当初同盟に参加し

庄内藩と共に新政府軍と戦いましたが

後に久保田藩が同盟を離脱し

新政府軍側に付いてしまうと

同調する形で同盟から離脱。

 

同盟軍側の庄内藩は激昂し

新庄城へと進軍を進め

新庄城は落城、新庄城下は大火に

見舞われたそうです

 

明治2年(1869年)、新政府側への変節による新政府軍優位を作り出した功績を賞されて、1万5000石を加増された。同年6月には版籍奉還により新庄藩知事となる。そして明治4年1871年)の廃藩置県によって正実は東京に移住し、新庄藩は廃藩となって新庄県となる。そして同年9月に新庄県は山形県編入された。

(Wikipedia引用)

 

その後は明治時代が始まり

新庄、最上地方の復興が

始まったとされます。

 

写真の戸沢神社は

戸沢始祖、戸沢衡盛

新庄藩初代藩主政盛の霊を奉祀し

明治27年に建造されました。

 

以上

新庄藩と藩主戸沢氏の

歴史と史跡のご紹介でした。

 

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