どーもKABUOです。
村山市、湯沢から尾花沢市、畑沢
そして延沢地区を結ぶ県道29号線。
その昔背炙り峠と呼ばれ
村山楯岡と尾花沢市延沢を
一直線に結ぶ街道がありました
今回はその道中にありました
歴史や史跡等を
ご紹介出来ればと思います
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悪路!背炙り峠の道中を行く
県道29号線の入り口
村山市楯岡から湯沢方面にむかう
県道29号線の入り口になります
祥雲寺
楯岡湯沢地区にあります
こちらのお寺
代々楯岡城主の菩提寺になっている
お寺になり古い歴史を持つお寺です
楯岡城の歴史やこちらのお寺の
詳しい内容はこちらに記載しています
大倉小学校跡
県道29号線の道中たも山地区に到着。
地名の由来は山間地帯一面が
たもの木の林であったことに由来。
1889年、林崎、たも山の2か村が
合併し大倉村が発足
1954年、周辺市町村と合併し
消失しますがこちらの小学校跡に
大倉の地名が残っております。
しかし2013年
楯岡小学校と統合し廃校となりました。
村山市中沢地区の入る途中に
ありますこちらの看板から
尾花沢方面に曲がると
背炙り峠の入り口に到着します。
中沢の棚田
背炙り峠の入り口
手前にあります中沢の棚田
山形の棚田20選に選ばれた
とても美しい棚田です。
また山形の穴場スポットを
発見してしましました("⌒∇⌒")
背炙り峠の入り口
ここからヘアピンコーナーが続く
背炙り峠の本番になります
僕のCUBもパワー不足で
ギア1
時速10㎞
で峠を越えます(笑)
道はこんな感じです
銀山温泉から山形市方面に進むと
カーナビは賢いので最短距離の
こちらの背炙り峠をルート指定する
そうですが
絶対来ちゃダメだって!
軽自動車ギリで2台通れるか位の
せっまい道が続き、
これでワゴン車なんて通った日には
絶対すれ違いなんか無理です
路肩もこんな溝がありますので
タイヤがとられて
JAFを呼んでもお手上げです
今回、調査中
何台か自動車とすれ違いましたが
全部県外ナンバー・・・
背炙り峠から見える
中沢の棚田
背炙り峠から見える中沢の棚田です。
絶景のスポットではないでしょうか!
ここで背炙り峠の歴史をご紹介。
この峠は歴史的に重要な役割を果たしてきた。古代から明治初めまで、宮城県側から山形方面への重要ルート上にあったと言われている。宮城県の軽井沢峠から山形県側に入り、上の畑、六沢、延沢、畑沢を通ってこの峠を越え、さらに山沿いに中沢、新山、湯沢を通って楯岡へ続いていた。やがて、15世紀中ごろから今の銀山温泉の近くで大規模な金・銀の採掘が行われてからは、金・銀の主要な搬送路としてこの峠が使われた。逆に鉱山へは推定2万人が消費する食糧などの日用品もこの古道で運ばれた。 しかし、全国でも屈指の鉱山も17世紀の半ばを過ぎると衰退してしまうが、今度は出羽三山への参詣路として使われるようになり、奥羽地方だけでなく関東地方からも盛んに参詣者が通行した。江戸時代には宿駅制度が始まったが、背中炙り峠を越える道はそのルートには選ばれなかった。それでも背中炙り峠越えが盛んに行われた。しかし、江戸時代の後期になると、ついに宿駅制度の疲労が顕著になり、羽州街道の宿駅と、背中炙り峠を利用する地域の間とで摩擦が生じ、「背中炙峠一件」と言われる代官所での訴訟になった。
(Wikipedia引用)
延沢地方を治めていた国人、延沢氏
銀山発掘によって国力を高めた
戦国武将になります
延沢氏の歴史はこちらで紹介しています
銀山で発掘した銀は背炙り峠を越え
山形城、城下町に運ばれ
山形藩の財政を潤せたと伝わっております。
古い地滑り用の石積
背炙り峠の名前の由来は
延沢地区から楯岡地区に向かう途中
朝早くから村を出た時は
背中に朝日を受けながら峠を越え、
一仕事終えて帰るときには同じく
夕日を背に受けながら峠を越えた事から
この名が名付けられました
こちらは道中にありました
地滑り防止の石積で整備された道になります
尾花沢市畑沢地区
背炙り峠を越えて
尾花沢市畑沢地区に到着です。
銀山が衰退後は
宮城県から尾花沢を結ぶ
最上軽井沢街道の脇道として使用され
出羽三山の参拝者等、
多くの人々が行き交いしましたが
尾花沢、土生田、本飯田を通る
宿場町の人々は困ってしまいます
宿場町では旅人や荷物の往来によって
賃金や税収を徴収しており
脇道の背炙り峠を越える事は
宿場町の生活に関わる事でしたので
尾花沢代官所に訴えでるといった
事件が発生した歴史があったそうです。
延沢八幡神社
畑沢地区から
ゴール地点の延沢地区に到着です
村山地区から直接銀山温泉に行くには
近道なんでしょうが
道幅が狭く夜は電灯も無いので
通る際はくれぐれも
注意して走行しなくてならない場所です
以上、背炙り峠の道中を行くでした
村山市の歴史と史跡
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