KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

横手市 沼館城(沼の柵)の歴史と史跡をご紹介!🏯

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どーもKABUOです。

 

秋田県横手市の歴史と史跡を巡る

旅に行ってきました

今回は平安時代後期後三年の役

清原家衡が籠城を行い

源義家清原清衡(藤原清衡)連合軍が衝突、

また戦国時代には雄勝郡平鹿郡

勢力を広げた小野寺氏の居城だった

沼館城の歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

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沼館城(沼の柵)の歴史と史跡をご紹介!🏯

 

 

沼館城跡(沼の柵)

 

横手市雄物川町沼館にあります

沼館城(沼の柵)。

その歴史ですが1083-1089年、

後三年の役の際清原家衡が籠城を行った

沼の柵跡地だと考えられています。

 

後三年の役について簡単に説明すると、

後三年の役より数十年前、

陸奥国を中心に勢力を広げた

安倍氏は朝廷に対し反旗を翻すという

前九年の役という事件が起こりました。

 

朝廷軍は苦戦を強いる事となりましたが、

出羽国を中心に勢力を広げた

豪族清原氏が朝廷側に味方した事により

戦局は朝廷方源頼義・義家軍勢が

有利となり安倍氏は滅亡、

この戦いの恩賞によって清原氏

出羽国陸奥国と領土得る事となり、

その後鎮府将軍に任命される等、

東北地方で一大勢力を広げる事となりました。

 

 

 

蔵光寺境内(沼館城本丸跡)

 

その後清原氏の統治が続くかと思われたが、

清原家当主真衡は不仲であった

次男家衡・異母兄弟で

安倍氏の血を引く清衡と対立する事となり

一族同士の内紛が勃発。

真衡は陸奥守に任命された

源義家の助力を得て、

家衡・清衡は戦いに敗退し

乱は収まるも

突然の病魔が真衡を襲い

急死する事となりました。

 

戦後義家の裁定が入り清原家の領地は

家衡・清衡に分割統治させる意

向であったが、

家衡はこれに不服とすると

清衡の居館を襲撃。

清衡は命辛々落ち延び義家に助力を求め、

家衡と清衡・義家は争う事となり

これが後三年の役と呼ばれています。

 


沼館城土塁跡

 

 

沼館城水堀跡

 

清衡・義家の大軍を前に家衡は

西に雄物川が流れ沼地や湿地帯に囲まれた

天然の要害沼の柵(沼館城)に立て籠り籠城、

水辺に囲まれた沼の柵は

泥濘に足を取られ進軍がままならず

また冬将軍の到来によって寒さや餓えを

清衡・義家の軍勢を襲い大苦戦を強いり

一時撤退を余儀なくされます。

その後家衡は叔父の武衡の助言もあり

より強固な金沢柵に居城を移し、

大軍相手に奮戦するも兵糧攻めにより

家衡・武衡軍勢は戦いに破れ

後三年の役終結される事となります。

 

戦後戦いに勝利した清衡は

清原家の旧領地をすべて手に入れる事となり

岩手県平泉に拠点を移し

実父である藤原経清の藤原姓を名乗り

奥州藤原の礎を築きあげました。

 

 

沼館城二の丸跡

(旧沼館小学校)

 

 

土塁跡(小学校南側)

 

奥州藤原氏時代の沼の柵についての

記録は残されておらず詳細は不明ですが、

その後鎌倉時代に入り奥州藤原氏は滅亡、

秋田県雄勝郡には地頭小野寺氏が入部し

稲庭城を築城し統治を行います

戦国時代には周辺地域に勢力を広げ、

現在の横手市一帯の掌握を図る為、

小野寺氏は沼の柵跡地に沼館城を築城し

拠点を移す事となりました。

 

この事から沼の柵は

奥州藤原氏時代から何かしらの

城や館が設けられていたと考えられ、

小野寺氏はその遺構を活用し沼館城を築城、

また地政学の観点から沼館城を見ると

西には由利郡に通じる本荘街道、

北には大仙市大曲に通じる沼館街道と

交通の要所を確保しており、

またこの時代は青森南部氏が

秋田県南部まで

進軍を進めていた頃ですので、

南西に進軍する南部氏に対し

より西側に居城を設ける必要性があり、

沼館城に居城を移したと考えられます。

 

 

小学校西側土塁跡

 


沼館城西側遠景

 

12代当主小野寺稙道は

庶流大築地氏にをこの城に置き

湯沢城へと拠点を移しましたが

小野寺家臣団の内紛により稙道は暗殺、

その子景道(輝道)は羽黒山へと逃れます。

その後庄内の戦国大名大宝寺氏の助力を得て

沼館城へと帰参し賊臣の粛清を行うと

秋田県仙北郡への勢力を広げるため

横手城の築城を行い居城を移しました。

 

その後景道は勢力を広げ、

近隣の安東氏・戸沢氏と戦い

織田信長に接近する等外交手腕を発揮し

一代勢力を誇りましたが、

その後景道の子義道の代に変わると、

近隣戦力との戦いに破れ失策を重ね、

外交政策の失敗によって国力は衰退。

太閤検地によって沼館は太閤蔵入地となり

1600年、関ヶ原の戦いでは

石田三成上杉景勝方西軍に与した事から

小野寺家は石見国津和野へと改易とともに

沼館城は廃城となりました。

 

 


沼館八幡神社(三の丸跡)

 

沼館城周辺を歩きますと、

本丸・二の丸・土塁・水堀が

しっかりと残されており、

城西側から雄物川の遠景を望むと

低地になっていることに気づき

沼の柵時代の雰囲気を感じる事もでき

蔵光寺と同じく沼館八幡神社

小野寺氏が創建を行い厚く信仰されました。

 

また地区にあります雄物川郷土博物館では

後三年の役や小野寺氏時代の統治の歴史、

沼館城の縄張り図も閲覧出来ますので

横手市に観光にお越しの際は

沼館城(沼の柵)の歴史と史跡に

ぜひ触れてみてください

 

 

こちらが史跡の場所です。

 

横手市の城郭跡

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