KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

米沢市 上杉鷹山の歴史と史跡をご紹介!(前編)🏯

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どーもKABUOです。

 

山形県米沢市の歴史と史跡を

巡る旅に行ってきました。

今回は米沢藩の財政を立て直し

後世に多大な影響を与えた

名君上杉鷹山の歴史と史跡を

簡単にご紹介出来ればと思います。

 

 

 

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上杉鷹山の歴史と史跡をご紹介!

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上杉鷹山公之像

 

米沢藩主上杉鷹山。

彼の功績と後世に与えた影響は数しれず

多くの著作も書かれていることから

手垢が付きすぎて地元の歴史が好きなだけの

ミーハーな僕がご紹介するのは

とてもおこがましく思いがするのですが(汗)

あまり鷹山にまつわる史跡の紹介を

行っているサイトが少ないと思いましたので

史跡を中心にご紹介出来ればと思います。

 

まず鷹山の生涯ですが

1751年、宮崎県日向高鍋藩主

秋月種美の次男として生まれ

母方の祖母の豊姫が米沢藩4代藩主

上杉綱憲の娘であることから

このことが縁となり10歳で

米沢藩8代藩主上杉重定の

娘幸姫の婿養子となりました。

 

幸姫ですが現在でいう脳性麻痺を患い

身体を思うように動かせませんでしたが

鷹山はそれを受け入れ懸命に看病を行い、

幸姫が亡くなるまで

夫婦仲睦まじく生活を送りました。

このエピソードからしても

かなりの人格者であった事が

伺い知ることが出来ます。

 

こちらの上杉鷹山銅像

米沢城跡上杉神社内に造られた物です。

 

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普門院

 

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細井平洲と上杉鷹山

敬師の像

 

1763年、江戸桜田

米沢藩邸で過ごしておりました鷹山は

学問の師となる儒学者細井平洲から

君主としての知識を磨き

後に藩政改革を行う為の

藩主の心得や基礎を学ぶ事となります

1766年、元服し治憲と改名

翌年家督を継ぎ米沢の地へと向かうのでした。

 

細井平洲ですが後に鷹山から招かれ

閉鎖されていた学問所藩校興譲館

(現米沢興譲館高等学校)を再興させ

藩士・農民身分を問わず学問を学ばせました。

1796年、3度目の米沢の来訪の際、

鷹山自ら平洲を出迎え普門院にて

旅の疲れをねぎらった事から

この師弟間の敬愛の姿は人々の範とたたえられ

平洲を出迎えました普門院及び羽黒神社

上杉治憲敬師郊迎跡として

国指定文化財に登録されています。

 

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白子神社

 

1767年、

米沢城に入城しました上杉鷹山でしたが

米沢藩の財政は逼迫し悲惨な物でした。

初代藩主上杉景勝は関ヶ原の合戦のおり

石田三成方に与していた事から

戦後徳川家康の命により

会津120万石から米沢30万石へと

減封を言い渡されてしまいます。

 

石高の激減から財政再建が必須でしたが

6000人程の多くの家臣がおりましたが、

上杉景勝は露頭に迷わせまいと

家臣をそのまま召し抱え各地に配置、

農地開拓を積極に行いましたが

他藩とは比較にならないほどの人件費や

戦国から続く上杉家の誇りから

石高に合わない豪奢な生活を送り

出費がかさみ財政が圧迫されました。

 

また米沢藩主3代上杉綱勝の時代

嫡子や養子無いまま急死すると

上杉家はお家断絶の危機にさらされましたが

吉良義央から末期養子を行い難を逃れます。

しかし幕府からペナルティが課せられ

30万石から15万石へと所領が減封され

更に財政が逼迫する事ととなります。

そのため米沢藩は財政を支えるため

農民への年貢の取り立ては苛烈を増し

多くの農村は疲弊する事となります。

 

鷹山はこの様子を目の当たり

困窮した米沢藩の財政を立て直すべく

旧先代家臣からの反対を退けて

12か条からなる大倹約令を発令、

日常の食事は一汁一菜、

普段着は木綿を着用する、

率先して自ら倹約を行うとともに、

江戸藩邸での生活費を切り詰め

奥女中を50人から9人に減らす等

大幅なコスト削減を行いました。

 

こちらの春日神社と白子神社は

鷹山が米沢藩を立て直すにあたり 

決意を表す誓詩を奉納しました。

春日神社には

・民の父母の心構えを第一とすること

・学問・武術を怠らないこと

・質素・倹約を忘れぬこと

・賞罰は正しく行うこと

という内容の誓詩を奉納、

白子神社には

大倹約を行って米沢藩を復興する事を表す

誓詩を奉納しました。

 

次回は鷹山が行った政策を中心にご紹介します。

www.yamagatakabuo.online

 

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