KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

寒河江市の歴史と史跡をご紹介!(近世〜近現代編🏞)

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どーもKABUOです。

 

山形県寒河江市の歴史と史跡を巡る

旅に行ってきました。

原始古代から近現代までの歴史を

1部・2部と分けてご紹介します。

今回は近世〜近現代を中心に

柴橋代官所戊辰戦争の歴史、

西村山郡役所等の史跡をご紹介します。

 

 

 

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寒河江市の歴史と史跡をご紹介!(近世〜近現代編🏞)

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寒河江代官所

 

近世の時代

寒河江大江氏を滅ぼした最上義光によって

関ケ原の合戦後、山形藩を立藩。

寒河江市及び西村山地方

最上氏によっは統治されておりましたが

1622年、最上氏の家臣団の内紛によって

幕府により改易を命じられると

寒河江は幕府領・山形藩・白岩藩・左沢藩と

各藩入り乱れ統治される事となります。

 

こちらの寒河江代官所跡は

最上氏が改易後の1624年に

寒河江城二の丸跡に設置された

幕府直轄の代官所跡で寒河江市の中心街を

管理・統治した歴史を持っています。

 

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白岩義民供養碑

 

1622年、

家臣団の内紛による最上家が改易後

新たに庄内藩酒井忠勝の弟忠重が

寒河江市白岩に入部し白岩藩を立藩しますが

しかし領民を顧みない過酷な圧政を行い、

白岩で大規模な一揆が発生、

忠重は白岩領主を追われ

幕府領へと編入されますが

過酷な圧政は変わる事が無く

領民は再び一揆を起こすと

首謀者は引っ立てられ処刑されるという

陰惨な歴史が残されております

 

こちらの誓願寺には

磔に処された白岩の領民38名を忍び、

時の白岩郷大庄屋和田庄左衛門等によって

後年鎮魂の供養碑が建立されました。

 

白岩藩と白岩一揆を詳しく

紹介した記事がはこちらです。

www.yamagatakabuo.online

 

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柴橋代官所 

 

こちらの柴橋代官所

幕府直轄地を支配した代官所の一つで

山形市の漆山陣屋支配地でありました

寒河江市柴橋地区及び25ヶ村は

庄内大山代官所預り地となったのを機に

1755年、行政上の不憫を訴え

天野市十郎代官が初代として仮陣屋が設置され

1765年、小田切新五郎代官が

本陣屋を構築。

代官は柴橋と寒河江の両方の代官を兼務し

寒河江市一帯の統治を行いましたが

その後寒河江陣屋と柴橋代官所が統合され

長岡山に陣屋が設けられる事となります。

 

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長岡山戊辰戦役古戦場跡

(厳島神社)

 

1868年、江戸幕府側の措置により

村山郡内の旧幕府領のうち

柴橋陣屋支配74000石余が

庄内藩の預り地として与えられ

同藩では藩士を派遣して

前年の年貢米23000石余を

鶴岡に搬入しましたが

これを討伐の口実として

新政府軍が天童に進出し寒河江に迫ったが

すでに庄内藩士は引き上げており

戦闘にいたりませんでした。

 

新政府軍の天童進出に対抗して

庄内藩で出兵が行われ六十里越街道経て進出し

慈恩寺に本陣を構えると、

庄内藩兵は最上川を渡り

天童陣屋の攻略に乗り出し

天童陣屋及び天童城下は戦火に巻き込まれ

天童藩藩主織田信敏は 仙台領へと逃げ

城下は焼き払われる事となり、

庄内藩の軍事的優位の中

奥羽越列藩同盟が結ばれる事となります。

 

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明治戊辰戦争戦没者埋葬地

(陽春院)

 

しかし同盟は

米沢藩仙台藩の降伏により瓦解、

米沢・薩摩藩兵を中心とする

新政府軍が寒河江へと侵攻を進め

市街地から長岡山・臥龍橋にかけて

激戦が繰り広げられました。

 

長岡山に登る麓にあります厳島神社近くには

長岡山戊辰戦役古戦場跡と書かれた

石柱が設置されており

詳しい案内板ではありませんが

戊辰戦争の歴史を現代に伝えている

貴重な史跡となっています。

 

またこの戦いによって

庄内藩と共に戦った桑名藩19名が戦死、

ざらしにされていたところを

陽春院の住職によって手厚く葬られ

墓所寒河江市指定史跡に登録されています。

 

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西村山郡役所・会議事堂

 

明治時代、

1878年西村山郡が成立すると

山形県三島通庸の指示により

地元の棟梁富樫伊久助氏によって

西村山郡役所・会議事堂が建設されると

寒河江市西村山郡の中心都市として

栄える事となります。

 

こちらの建物は県内屈指の古い洋風建築の

一つに数えられており、

1981年、現在地である長岡山に移設、

西村山郡の政治や経済・文化をテーマとした

郷土資料館として現在使用され

山形県有形指定文化財に登録されています。

 

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大円院跡

 

近現代

寒河江葉山市民荘から

程近くにあります大円院跡

寒河江市村山市の境にあります

葉山と関連性が深い寺院になります。

 

葉山と大円院の歴史ですが縁起によると

702年、修験道の祖役行者の弟子

行玄によって開かれた霊山であります

平安の初め慈覚大師が来山、

鎌倉時代に葉山僧正こと栄西禅師が

宋より帰朝の後、当山に来たり

医王山金剛日寺と号したことから

大円院の歴史が始まりました

 

江戸時代初期までは羽黒山・月山とともに

出羽三山の一山に数えられており

宿坊は20ヶ所、末寺は50を越え

葉山修験は最盛期を迎えましたが、

後に慈恩寺との確執から出羽三山修験から抜け

江戸時代中期から徐々に衰退、

明治維新による廃仏毀釈によって

追い討ちをかける事となります。

 

1946年、日本が敗戦を迎えた翌年、

東根市神町に米軍が駐留、

大円院の敷地内は

射撃場の演習地として接収され

寺院は取り壊される事となり

現在の村山市岩野に移転する事となりました。

 

現在葉山へと登頂を目指すルートの一角に

大円院の史跡跡が残されており

寺院自体は取り壊されていますが

当時使用された石畳だけが

現在でも残されており

当時の栄華を忍ばせております

 

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幸生銅山跡

 

寒河江市幸生地区にありました幸生銅山。

その歴史ですが江戸時代初め頃に発見され

北隣にあります永松銅山とともに国内有数の

産出量を誇る銅山として地域のみならず

日本の社会経済に大きな影響を与えました。

 

経営の主体は住友家などの商人の請負

幕府や藩の直営、村方の明主等の

請負などと変わりましたが、

明治時代になると永松銅山とともに

古河鉱業の経営となり

大戦のたびに産出量を増やして

国内産業を支える重要な鉱山となりました。

 

しかし、第二次世界大戦後は

鉱脈の枯渇や貿易の自由化の影響による

経営悪化によって

1961年廃山となりました。

 

当時は村々が形成され

小学校や銭湯等もあったそうですが

現在は案内板だけが立っており

人々が暮らしていた痕跡は残されておらず

村人のお墓だけが残された状態となっています。

 

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道の駅チェリーランド

 

現在寒河江市では最上川の肥沃な土地で

栽培されたサクランボの生産や

月山観光に寒河江温泉と

観光スポットが数多く存在しています。

山形県に観光にお越しの際は

寒河江市ににぜひ訪れて見て下さい

 

以上寒河江市の歴史と史跡のご紹介でした。

 

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寒河江市の歴史と史跡

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