KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

寒河江市 白岩城の歴史と史跡をご紹介!🏯

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どーもKABUOです。

 

山形県寒河江市にあります

寒河江大江氏の一族白岩氏のお城跡、

白岩城の歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

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白岩城の歴史と史跡をご紹介!🏯

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白岩八幡神社(八幡館跡)

 

白岩城の歴史は

足利尊氏後醍醐天皇が争った

南北朝動乱の時代(1336〜1392年)

西村山地方を治めておりました

寒河江大江氏7代時茂は、

後醍醐天皇寄りの南朝方に味方し

北朝方の武将と対峙すべく一族を

各地に配置し争乱に備えます。

 

時茂の嫡男溝延城主茂信の子、

政広を寒河江市白岩に配置すると

名前を白岩氏と称し築城させたのが

白岩城の始まりになります。

 

こちらの白岩八幡神社

白岩城の城郭があったとされる場所で

現在は社殿の他に忠魂碑が

建立されておりました。

 

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稲荷山館

 

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寒河江川

 

白岩城は葉山山麓の南端、

標高190m程の通称稲荷山に築かれた

連郭式の平台城となっており

本丸は東西95m、南北181m程の

広さがあったとされ

稲荷山に築かれた館を中心に

東西に上楯山館・八幡館が築かれており

寒河江川と実沢川が合流する

天然の要害を利用して築城されました。

 (築城時期は不明)

 

稲荷山館・上楯山館・八幡館跡の

三館合わせ白岩城と呼ばれております。

 

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白岩城濠の石垣

 

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上楯山館跡

 

1368年、白岩氏は

宗家寒河江大江氏と共に漆川の戦いで

最上家始祖斯波兼頼に敗北を喫しましたが

その後、寒河江大江氏が

北朝方に降る事によって

所領は安堵される事となります

 

その後、庄内地方で勢力を広げる

大宝寺氏の影響が広がる中

村山と庄内を結ぶ六十里街道の重要性が増すと

一族である吉川氏から溝延城に養嗣子と入った

満教を白岩氏に再度養嗣子として迎い入れ

白岩城の強化が図られました。

 

 

上楯山館跡には

白岩城の石垣が残されております。

 

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洞興寺(白岩氏菩提寺)

 

白岩満教は溝延氏と連携を組みながら

徐々に自立性を高め領主権を拡大、

菩提寺であります洞興寺を建立する他、

1479〜1480年に起こりました

伊達氏との戦いのおり(菖蒲沼合戦)

宗家寒河江大江氏と一族左沢氏との間に

諍いが起こりましたが間に入り仲裁、

慈恩寺へ誓詩を納めたとの

記録が残されています。

 

また1506年、最上義定による

寒河江氏領土に侵攻に対する防備、

1516年、最上氏・伊達氏との争いでは

和睦の仲介に入る等の

寒河江氏の有力家臣として活躍しました。

 

菩提寺であります洞興寺の山門は

後に白岩城の廃却された後、

表門を移築したものと伝えられており

また小説家志賀直哉も訪れた事もある

白岩城きっての見どころポイントです。

 

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白岩城跡登り口 

 

8代白岩広教の時代、最上義守の娘を娶り

最上氏と縁戚関係を結ぶと、

1574年、最上義守・義光の家督争い

天正最上の乱では宗家寒河江氏は

義光の味方に付きましたが、

広教は義守との縁戚関係から義守方に付き

左沢・溝延氏と共に寒河江城に攻め込みます。

 

しかしその後、義光の勝利によって

最上家の家督が引き継がれると、

村山地方を統一すべく多くの戦いを積み重ね

1584年、寒河江氏を攻め滅ぼしました。

 

白岩氏は最上氏配下へと下る事となり

後に義光は甥である松根光広を

白岩氏に婿養子として

入城させ城主に据えましたが、

1600年、東北の関ヶ原慶長出羽合戦では

六十里越街道を経て侵攻した

上杉家臣下秀久によって

攻め落とされてしまいます。

しかし徳川家康の勝利により

関ケ原の合戦後、最上氏によって

再度統治される事となりました。

 

白岩城登り口から登ると

途中稲荷社が見える平場へと到着、

ここから本丸へと続く

ルートがあるそうなのですが

藪が多く道筋が分かりにくいため

今回はお城の反対側からの

散策を行い本丸を目指しました。

 

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白岩城本丸跡

 

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お城の反対側

 

こちらがお城の反対側から歩いて到着した

白岩城の本丸跡になります。

お城の反対側は田んぼや畑と

農地開発されておりましたが、

お城の本丸までの簡単に向かう事ができ、

遺構ではないかとお思われる

史跡が所々残されておりました。

 

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白岩陣屋跡(白岩小学校)
 

1622年、

家臣団の内紛による最上家が改易、

新たに庄内藩酒井忠勝の弟、忠重が

白岩城に入部し白岩藩を立藩。

しかし領民を顧みない過酷な圧政を行い、

1633年、白岩で大規模な一揆が発生、

1638年、忠重は白岩領主を追われ

白岩の地は幕府領へとなりお城が廃却、

白岩陣屋が設立されました。

 

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誓願寺

 

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白岩義民供養碑

 

新たに代官が派遣されましたが

しかし過酷な圧政は変わりませんでした。

領民は再び一揆を起こると

鎮圧すべく代官の小林十郎左衛門は

山形城主保科正之に救援を求めたところ、

正之は訴えを聞き入れるとの嘘の情報で

白岩の領民代表者を山形に呼び寄せ

磔の刑に処する厳しい処分を行います。

 

この事件は

西の島原天草一揆に東の白岩領民一揆

歴史に残る大事件となり、

その後、白岩の地は幕府統治下のもと

明治維新まで統治される事となりました。

 

こちらの誓願寺には

磔に処された白岩の領民38名を忍び、

時の白岩郷大庄屋和田庄左衛門等によって

後年鎮魂の供養碑が建立されました。

 

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白岩城搦手門(滝華寺)

 

現在白岩城は白岩小学校を中心に

多くの史跡が残されており

とても散策しがいがありますので

寒河江市に観光に訪れの際は

ぜひ白岩城を散策してみてください

 

以上

白岩城の歴史と史跡のご紹介でした。

 

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こちらが史跡のアクセス場所です。

 

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