KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

河北町の歴史と史跡をご紹介!(原始古代〜中世の時代偏)🏞

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どーもKABUOです。

 

山形県西置賜郡河北町

歴史と史跡を巡る旅に行って来ました。

中世の城跡、谷地城・溝延城をはじめ

近世紅花栽培で栄えた同町の

歴史と史跡を1部・2部に分け

ご紹介します。

 

今回は原始古代から中世にかけ

谷地中条氏や谷地八幡宮

中世の城郭溝延城の歴史や史跡を

ご紹介します。

 

 

 

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河北町の歴史と史跡をご紹介!🏞

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河北町役場

 

河北町の歴史ですが1954年、

谷地町・西里村・溝延村・北谷地村による

新設合併を行い河北町が誕生、

町名の由来ですが寒河江川北部に位置し

生活上、寒河江川水系との

関連が深いことに由来し名付けられました。

 

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月見山遺跡(月山神社)

 

原始の時代。

先土器時代、縄文時代弥生時代

各時代事の遺跡が西北部山麓沿いから

南東部の寒河江川沿いにかけ

数多く町内から発見されており、

法師森遺跡、根際山神遺跡、

後沢遺跡、長慶寺原遺跡、花ノ木遺跡等

旧石器や縄文、弥生時代の集落が

確認されています。

 

こちらのお月見山遺跡は

縄文式文化中期・中頃の遺跡で

竪穴式住居跡が発見されました。

 

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両所神社

 

古代の時代、

当町域は出羽国村山郡に属し、

山形盆地の中でも経済・文化共に

最も進んでいたとされており、

平安後期には摂関家領荘園

寒河江荘の一部として発達、

飛鳥時代から平安時代の史跡として

月山堂遺跡や熊野台・馬場遺跡が

確認されています

 

こちらの両所神社は

前九年の役(1052〜62)の

奥州征伐の後、源義家によって

創建されたと伝えられており、

鳥海柵攻めに難儀した義家のもとに

土地の翁が鳥海・月山両権現に

祈願すれば戦に勝てると助言をしたところ、

戦いのあと鳥海・月山の神を勧請し

この地に権現堂を建立したのが

起源とされています。

 

その後、2回の本殿の再建され

明治維新の際に両所神社に改称されました。

 

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溝延城

 

中世の時代 

鎌倉時代の1189年、

寒河江荘地頭になりました大江広元

多田仁綱を派遣して統治を行います。

当時寒河江荘は寒河江市河北町を含む

最上川北岸の全域を包含しておりましたが、

1261年、大江氏2代高元は

嫡子なく早世により相続問題が起こると

河北町一帯でありました北寒河江荘は

北条氏・鎌倉円覚寺へと

統治者が変わりました

 

その後、南北朝時代に入りますと

寒河江大江氏は支城を置いて 

寒河江荘に対する備えを固めたと

記録に残されており不明な点が多いですが、

恐らくは大江氏と敵対する勢力が

河北町一帯を支配しており

築城に至ったと思われます。

 

溝延城の歴史と史跡を

詳しく紹介した記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

 

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堀口館跡

 

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中条備前守秀長の墓(慈眼寺)

 

1396年、

陸奥の田村庄司の反乱鎮圧に功のあった

中条秀長は上田鍋の地を

鎌倉幕府により宛行われました。

上田鍋とは河北町谷地北西部にありました

古沢川の沿岸地帯の古名だとされており、

中条氏の時代に町の西進と大堰の水利事業が

行われたと考えられています。

 

堀口館は中条氏が谷地に入部後

最初に居館を築いた所で、

当初統治地域は

最上川周辺に限られておりましたが、

徐々に加増され150年間の間に

谷地周辺の殆どを領地するようになります。

しかしその後、最上川の流路変更によって

川沿いに近い堀口館は次第に危うくなり

新たに谷地城を築く事となりました。

 

谷地にあります慈眼寺には

中条氏の初代秀長のお墓が建立されており、

貴重な史跡となっております。

 

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谷地八幡宮

 

弘治年間(1555〜1558年)

中条秀長の子孫である中条長昌によって

谷地城が築城されましたが

その後中条氏は断絶、

永禄〜元亀年間(1558〜73年)

村山市白鳥から谷地に進出したといわれる

白鳥長久のもとで谷地城の構築を中心に

城下町の整備が行われ現在の谷地地区の

発展の基礎を築きあげ大きな功績を残します。

 

中条氏の断絶や白鳥氏の谷地進出には

不明な点が多いのですが一説によると

病状に伏せた長昌が白鳥氏を呼び寄せ

領土を譲ったとの伝承も残されておりますが

定かではありません。

 

こちらの谷地八幡神社

1091年、奥州清原氏を平定した源義家

白鳥村(現村山市白鳥)に石清水八幡を勧請して

祈願所にしたと伝えられており、

谷地城主であった白鳥長久によって

現在地に遷し鎮守社とすると

寒河江八幡宮、溝延八幡宮とともに

寒河江荘3八幡宮と称され

多くの信仰を集めます。

 

明治時代、神仏分離政策のもと

郷社八幡神社と改称、

1940年には県社へと昇格を果たし

その後、社名を谷地八幡宮

改称いたしました。

 

毎年9月に行われる例祭、

谷地のどんがまつりは地方随一を誇り、

紅花染めの衣装を身にまとい

奉納されます林家舞楽

日本四大舞楽のひとつに数えられ

国指定無形民族文化財に登録されています。

 

以上、

河北町の原始古代~中世の時代までの

歴史と史跡のご紹介でした。

次回は戦国時代から

紅花商家で栄えた近世江戸時代、

そして近現代までをご紹介します。

 

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