KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

中山町の歴史と史跡をご紹介!🏯

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どーもKABUOです。

 

山形県東村山郡中山町の

歴史と史跡を巡る旅に行ってきました。

中世にこの地を統治した中山氏や

山形の秋の名物、芋煮の発祥の歴史等

ご紹介出来ればと思います。

 

 

 

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中山町の歴史と史跡をご紹介!

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長崎駅

 

中山町の歴史ですが

1889年、長崎村・達磨寺村・向新田村が

合併し最上村が発足し後に長崎町になります。

岡村・土橋村・金沢村・小塩村が

合併し豊田村が発足すると

1954年、昭和の市町村合併により

長崎町と豊田村が合併し中山町となりました。

 

町名の由来は

中世から近世初頭にかけて

当地一帯の領主であった中山氏が

地名の由来となります。

 

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岩谷十六夜観音堂

 

原始古代

先土器時代のものとして黒曜石の彫刻刀が

大字土橋の滝地区から出土しており

縄文遺跡には大字小塩の塩ノ原、

柳沢の御獄神社、岡の影浦遺跡などの8ヶ所、

弥生遺跡は大字金沢の庚申山遺跡があり

最上川沿いの長崎、三軒屋地区などの

各地から出土しております。

 

平安時代の記録によりますと

出羽国最上郡、荘園時代には

山辺荘に属していたと記録に残されており

こちらの岩谷十六夜観音堂

飛鳥時代蘇我馬子重臣

右近衛秀豊僧正が開基し、

その後約200年を経て

837年、慈覚大師が

再建したものと伝えられる。

 

江戸時代中期以降、

川西三十三番の納札所として

オナカマの総本山として繁盛し、

本堂に奉納されている

貴重な道具類や絵馬などの資料は現在

町指定民族文化財として保存されています

村山地方でイタコさんの事をオナカマと呼び

盲目の女性が多くこの地で修行され

口寄せを行った歴史がありました。

 

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長崎楯(中山城)

 

中世の時代

承久の乱後鳥羽上皇方につき、

寒河江荘に逃れた大江親広に従って

京都から落ち延びてきた家臣に

中山忠義がいる。

忠’義は中山氏の始祖と伝えられ

始めは大江町伏熊に居住し大江氏の重臣として

最上川右岸を統治しておりました。

7代継信のときに沼尻郷とよばれていた

長崎地区の湿原地帯の開拓を行い

1384年、長崎楯をつくり

外濠をめぐらし城下町を形成、

以後中山氏によって統治される事となります。

 

長崎楯跡にありますこちらの大イチョウ

中山氏居城の本丸内、楯の庭前にあったものと

伝えられています。

 

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八坂神社

 

中山町にあります八坂神社は

1469年、この地に大干魃、大飢饉、

疫病が蔓延し人々は疲弊しておりました。

長崎楯主中山宗朝はこれを憂い

京都祇園牛頭天王を勧請せんと発願、

1472年、宗朝の子、直正と

家臣鳥鬼沼兵部貞治を使わして

館の鬼門に勧請、社地を構え 

小社を建立して父の心願を願就いたし

深く崇敬し祈願を重ねたところ

天災はことごとく除かれたため

改めて社宮を造営したと伝えられています

 

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中山氏墓所(円同寺)

 

戦国時代、

南北朝の動乱による漆川の戦いにより

大江氏は最上勢に敗れ所領は安堵されるものの

両者緊張状態が続く事となります。

1503年、最上氏が治める山野辺城主

山野辺氏と中山氏は縁戚関係が結ばれる

記録が残されており両軍割拠するなか

大江領・最上領の間に挟まれた中山の地は

戦略上重要拠点だったと考えられます

 

長崎楯の隣にあります同円寺は

1444年に開山された中山氏の菩提寺

氏に関連する史跡が残されておりました。

 

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 玄蕃壇(中山朝正墓所跡)

 

その後最上氏の力が次第に大江氏を圧倒。

1584年、最上義光が大江氏を滅ぼすと

八代中山朝政は最上氏の配下となります。

朝政は50年間地域開発と住民統治を果たし、

領民の尊崇厚く玄蕃さまと慕われた人物で

その後、義光の命を受け庄内地方を治める

大宝寺氏を攻め立てる等の活躍や

十五里ヶ原の戦いや慶長出羽合戦にも従軍、

江戸時代、山形藩の立藩によって

中山氏の地位も安定したかにみえましたが

1622年、最上氏の改易によって

中山氏は阿倍正次の預かりの身となり

長崎楯は廃城となりました。

 

こちらの玄蕃壇は

中山町指定文化財登録されており

中山朝政が68歳で死去された際

埋葬されたお墓がありましたが

同円寺は最上川の洪水によって

現在の場所に移転されましたが

玄蕃の墓は現在に残され今に至ります。

 

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上町の市神石

 

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光秀院の大日如来

 

近世の時代

長崎地区は出羽三山参詣の宿場町として

六斎市が開かれるほど賑わい、

現在中山町役場がある場所は

市場が開かれた事から

市神石が祀られています。

 

また光秀院にある大日如来

湯殿山行者善竜海の

発願により創建されといわれ

三山に向かう参拝者が

多く参拝に訪れた歴史を持ち、

市神石と共に町の文化財に指定されています。

 

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鍋掛松

 

1694年、最上川の開削工事によって

最上川舟運が長崎から荒砥まで通じます。

それまで最上川舟運の終着点が長崎港で

米沢方面への船荷の積み替えが行われた

要地でした

 

内陸からは米、紅花などを運び、

一方京都からの帰り荷には衣料、蚊帳や

雛人形など上方文化を積み帰ってきました。

 

船頭や水夫たちは船着場で風待ちの間、

京都から運ばれた棒だらと地元の里芋を材料に

河岸の松の枝に鍋を掛けて煮て食べたとされ

山形名物芋煮会の始まりだとされます。

  

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柏倉家住宅

 

中山町は江戸時代中期以降、

地主制の発達が最も著しい地域の一つでした。

中でも柏倉九左衛門家は

江戸中期山形城堀田氏の下で

6700石の大庄屋を勤めます

 

近隣に十数作の有力な分家があり

一族一体となって地方行政をはじめ

公共事業、農政、教育等に力を注ぎました。

 

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観音堂

 

現在中山町では

水稲や果樹、野菜、畜産等が営まれ

特にプラム栽培はは東北一の生産量を誇ります。

山形県に観光にお越しの際は

中山町にぜひ訪れてみてください

 

以上、中山町の歴史と史跡のご紹介でした。

 

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