KABUOの東北歴史巡り

どーもKABUOといいます。地元山形を中心に東北各地や海外など旅してまわっています。各地で巡った地域の歴史や史跡などをご紹介してますのでぜひご覧ください

青森県津軽地方 津軽安東氏の歴史と史跡をご紹介!⚔️

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どーもKABUOです。

 

青森県津軽地方の歴史と史跡を巡る

旅に行ってきました。

今回は中世の時代、津軽地方を統治しました

津軽安東氏の歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

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津軽安東氏の歴史と史跡をご紹介!⚔️

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藤崎城趾(藤崎八幡宮)

 

津軽安東氏の出自ですが

1052年~1062年

朝廷と東北の大豪族安部氏の争い、

前九年の役が起こります。

安部氏当主、安部貞任は奮戦するも

派遣軍に破れ滅亡してしまいます。

 

貞任の遺児、高星丸は家臣と供に

藤崎の地に落ち延び成人後、

安東氏と改名し藤崎城を築城、

津軽地方で勢力を広げたと伝わっており、

また吾妻鏡の記録によると、

源頼朝奥州藤原氏の戦い、

阿津賀志山合戦で活躍した

藤崎の土着豪族、安東次が

安東氏の直接の祖とも考えられております

 

青森県藤崎町にあります

藤崎八幡宮は藤崎城の跡地だとされ、

当時の土塁跡が現在でも残されておりました

 

藤崎城を紹介した記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

 

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福島城跡

 

鎌倉時代奥州合戦の後、

津軽外三郡の領土が与えられ

蝦夷管領が任命されると、

福島城を拠点とする

奥州藤原氏一族、十三藤原氏と対立。

弘前市近くの萩野台で合戦が行われ

津軽安東氏が勝利を収めます。

 

津軽安東氏はその後、

代々「安東太郎」と称し

福島城を惣領家、藤崎城を庶子家に別れ

津軽外三郡を統治する事となりました。

 

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十三湊遺跡

 

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市浦歴史民俗資料館 

 

十三湊は奥州藤原氏の時代から

中国や蝦夷地を中心に交易が行われました。

 

福島城に居城を移した津軽安東氏は

津軽外三郡の厳しい環境から

作物の収穫はままになりませんでしたが

十三湊を掌握すると

蝦夷地との交易が盛んに行われ

藤崎城までを結ぶ岩木川水運が発達、

莫大な財を築き挙げ日本海は福井若狭

太平洋は宮城松島まで勢力が及びました。

 

現在十三湊遺跡は旧十三小学校周辺近くから

中世の武家屋敷跡や遺跡が多く発掘されており

また市浦歴史民俗資料館では

津軽安東氏と十三湊遺跡の

歴史を学ぶ事が出来ます。

  

十三湊遺跡はこちらの記事でも紹介しています

www.yamagatakabuo.online

 

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山王坊遺跡(日枝神社)

 

こちらの山王坊遺跡は

古くから霊地として信仰され

福島城の鬼門を鎮護するために

祀ったと伝えられており、

東北最大級の宗教施設であったと

発掘調査で確認されております。

 

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中里城趾

 

藤崎城と福島城を結ぶ

古い中世の街道下之切通り。

街道沿いにありますこちらの中里城は

安東氏の支城で藤崎城と福島城の間に

位置している事から

重要地点であったと考えられております

 

中里城はこちらの記事でも紹介をしています

www.yamagatakabuo.online

 

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関の甕杉・関の古碑群

 

繁栄を極めた津軽安東氏でしたが

元応年間(1319~21年)

惣領家、庶子家の間で

蝦夷管領の地位や一族の跡目を巡

津軽大乱」と呼ばれる内紛がおこると

青森県深浦町北金ヶ沢辺りで激しく激突。

幕府の2度に渡る派遣により沈静化されますが

鎌倉幕府による統治能力の崩壊を物語り、

津軽大乱は鎌倉幕府滅亡の

きっかけの一つだとされております。

 

その後、庶子家は津軽地方を離れ

秋田県南秋田郡へ下向、

惣領家は西津軽郡

そのまま統治する事となるのですが、

1340年、十三湊を大津波が襲い

湊が壊滅的な被害を受けてしまい

内紛とあわせ徐々に国力を落とす

起因となってしまいました。

(十三湊の大津波は諸説あり)

  

 

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唐川城跡

 

南北朝時代、当初津軽安東氏は南朝派に属し

北朝派武将と争いをみせておりましたが

後醍醐天皇の采配に不満を持つようになると

建武の新政の崩壊により

足利尊氏に与するようなると

南朝方の南部氏と

激しく対立する事となります。

 

津軽安東氏は当主盛季の時代

南部氏と婚姻関係を結び

一度和睦を結ぶ事となりますが

1443年、南部政盛は盛季の見参と称し

福島城に入城すると配置した伏兵に合図を出し

福島城を計略をもって攻略します。

 

隙を付かれた盛季は支城である

唐川城に避難し南部氏の猛攻に堪え忍びますが

南部勢の勢いは凄まじく

唐川城も捨てざるを得ませんでした。

 

唐川城は標高166mの山城となっており

現在では展望台が設置され

十三湖日本海を眺望する事が出来ます。

 

福島城や唐川城は

こちらの記事でも紹介しています

www.yamagatakabuo.online

 

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柴崎城跡(神明宮)

 

唐川城から落ち延びた安東盛季は

こちらの中泊町小泊にあります

柴崎城に最後に立ち寄った後、

蝦夷地まで撤退を行う事となり

300年以上統治した西津軽地方の

領土を完全に失う事となります

 

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森山城跡

 

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元城跡

 

その後、津軽安東氏は

南秋田郡に下向した一族を頼りに

秋田県檜山に居城を移し

戦国大名として乱世を

生き延びる事となるのですが、

旧領津軽地方の奪還を何度も試み、

森山城や元城に立て籠り戦いに挑みますが

南部氏やその後の津軽為信にも破れ

津軽地方の地を踏むこと無く

夢は潰える事となるのでした。

 

津軽安東氏の史跡は

藤崎城から柴崎城まで結ぶ

下之切通り沿いに多く史跡が残されており、

中世鎌倉時代から室町時代にかけた

この地方の歴史を学ぶ事が出来ますので

津軽地方にお越しの際は

ぜひ史跡巡りを行ってみてください。

 

以上、津軽安東氏の歴史と史跡の

ご紹介でした。

 

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